マタイ13:31-52
“天の御国の弟子となった学者” 内田耕治師
天の御国は天国。天の御国の弟子はキリストを信じて救われて天の国籍を与えられた者。天の御国の弟子である学者は、専門家として頭に蓄えた天の御国についての知識を人々に伝える者である。キリストを信じて救われた私達は小さな者であっても天の御国の専門家である。では、国とは何か。
国とは場所ではなく支配である。つまり天の御国は神が支配する所であるが、それは天国だけでなく、この世にも存在する。この世の御国はみことばを聞いてキリストを信じて神の子どもとなった私達のうちから始まり、私達から他の人達にもこの世にも広がり、やがて天で完成する。
主のたとえ話はそういう御国を3つの点から解説する。まず“からし種”と“パン種”のたとえ話は,御国が初めは小さくてもやがて大きく成長するものだと教える。それらはみことばによって芽生えるキリスト信仰である。初めは小さくても信仰は大きく成長する。
次に“宝が隠された畑”や“良い真珠を探す商人”のたとえ話は、御国が何としてでも手に入れたくなるものだと教える。どうしてなのか?この世のものは、いずれ私達も私達が作り上げたものも滅んでなくなる。死の壁に直面すると私達は愕然とさせられるが、御国は永遠の祝福であり、私達はその祝福にあずかる希望があるからである。
そして“毒麦と良い麦”や“魚を集める網”のたとえ話は世の終わりの収穫の時、毒麦は火で焼かれ、悪い魚は捨てられるが、良い麦は御国で太陽のように輝き、良い魚は入れ物に入れられというふうに世の終わりのさばきが厳格になされることを教える。
私達は天国の専門家としてこれらのことを人々に伝えるが、忘れてはならない大事なことがある。それは、私達ももともとは毒麦であり悪い魚だったのに、神の恵みのゆえにキリストの十字架の血によって罪の赦しを与えられ、良い麦、良い魚とされ、天に国籍が与えられたことである。そこまで踏み込んで語らなくてはならない。もし恵みのゆえに良い麦、良い魚になったことを忘れてまるで自分がもともと良い麦、良い魚と思って高ぶるようになると、とんでもないことになる。私達は人々の救いのために立てられているのに、私達の高ぶりは人々を“もともと良い麦や良い魚の彼ら(私達のこと)と違って、自分達はどうせ捨てられる毒麦や悪い魚だ”と思わせて福音から遠ざけてしまうからだ。そうなってしまうと恵みの福音を伝えられない。だから私達が天の御国を伝える専門家になるためには、まず私達がもともと神の前に罪ある者であり、ただキリストを信じたことによって恵みにゆえに良い麦、良い魚に変えられたという信仰に立ち、“こんな自分が変えられたのだから、あなたもキリストを信じるだけで良い麦、良い魚に変えられ救われるのです”と語らなくてはならない。
天の御国を伝える専門家として私達が上手く用いられることを願ってやまない。