詩篇105:12-45、ローマ4:16

“神は選んだ者を必ず守る”  内田耕治師

 

詩篇105篇は神は選んだ者を見捨てず守ることを教えてくれる。登場するアブラハムを初めとするイスラエル人は遠い昔の遠い国の人々だが、信仰的には関係がある。アブラハムは神が選んだ者だ。彼は創世記15章でまだ子がなく、無割礼のときに子孫の繁栄を告げる主の声を信じて義と認められ、私達も何も行いがないのにただキリストを信じて義と認められた。

だからアブラハムは私達の信仰の父、私達は彼の子孫である。アブラハムを初めとするイスラエル人は神が選んだ民、私達も神が選んだ民である。神の選びは“契約”という言葉に現れている。神はアブラハムを選んで契約を結び、その契約は永遠だと言う。契約は言い変えると約束だ。神はどんなことがあっても約束通りに選んだ者を守る。そのことをアブラハムを初めとするイスラエル人の歩みに見ることができる。

アブラハムの歩みはカナンの地を“ゆずりの地”として与える神の約束を信じたことから始まる。けれども、すぐにその地を得たのではなく寄留者として諸国を渡り歩いた。虐げられかかることがあっても神が彼を守った。たとえ彼に落ち度があったとしても。ヤコブの時代、全世界に大飢饉が来たとき、神はヨセフを先にエジプトに遣わす不思議な方法で彼らを守った。エジプトに奴隷として売られたヨセフはそこで不思議な導きで国を動かす地位に就き、穀物を備蓄し、飢饉に備えた。彼らはヨセフを通してエジプトに移住して飢饉から救われ、寄留者として生活を始めた。

エジプトで数が増えて民族となった彼らは、ヨセフを知らない王が支配するようになると奴隷にされて虐げられた。けれども、彼らを奴隷から解放し、約束の地カナンに行かせるために神はモーセとアロンを遣わした。彼らはイスラエル人を解放するように王に要求した。しかし王は頑なに拒んだので主は数々のしるしによってエジプトを痛めつけた。最後に過越の夜、エジプトの長子をことごとく打つという出来事によって王はついに彼らを解放し、彼らは奴隷として働いてきた報酬をエジプトから得て荒野へ旅立った。荒野では彼らは昼は雲、夜は火に導かれ、うずらやマナで養われた。神は選んだ彼らを守ったのである。

ところで、彼らが奴隷から解放されて約束の地カナンを目指したことは、私達が罪の奴隷から解放されて相続地である天国を目指すことを表す。人間はだれでも神の前には罪があり、そのまま行くとその罪を神にさばかれて滅びざるを得ない存在だ。けれども、私達を選んだ神は、私達を滅びから救うために御子キリストを遣わした。

出エジプトでは子羊は屠られ、エジプト人の長子の命が失われた。けれども、私達のためにはたった1人の御子キリストが私達の罪のために十字架で血が流すことで私達は滅びから救いに移され、やがて天国を相続する者とされている。私達に良い性質とか立派な行いは何もないにもかかわらずである。これこそ神は選んだ者を見捨てず、必ず守ることである。いろんなことがあっても必ず守り、必要なものを与え、やがて相続地である天国に導いてくれる神に信頼していこう。