マタイ13:53-58、ヨハネ1:11-12
“郷里でも力を示されたキリスト” 内田耕治師
イエス様のナザレ伝道が上手く行かなかったのは事実だが、ただ郷里伝道は難しいことを言うために「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです」と言ったのではない。大宣教命令「あらゆる国の人々を弟子としなさい」によると郷里でも郷里以外でも外国でも行って宣教するのが神のみこころだ。たくさん救われたら成功、少しか救われないなら失敗という成果主義は大宣教命令の否定につながる。だから、たとえ救われる者は少なくても羊飼いのいない弱り果てた羊を探して福音を伝えるのが伝道だ。そのためにイエス様は神のあり方を捨てて人として世に来られ、十字架の道を歩まれた。その視点でイエス様のナザレ伝道を見ると、ナザレの人々に拒否されたことにむしろ神のみこころが見えてくる。
初めナザレの人々はイエス様の宣教に触れて驚き「こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのか」と大いに興味を示した。けれども、イエス様がその家族も知られたナザレの人であると気づいて彼らはつまずいた。その結果、主はそこでは多くの奇跡を行わなかった。彼らのつまずきは、イエス様ではなく彼ら自身に原因があった。ナザレの人々は田舎者で貧しく知識はなく時には愚かな庶民だ。「この人は大工の息子ではないか。――」彼らがイエス様やその家族を見る思いは複雑だったが、そんなイエス様がメシヤとして彼らに福音を語りだした途端にそれが噴き出した。主を妬んだパリサイ人や律法学者と基本的に同じように彼らは自分達よりも正しく真理を語るイエス様を前にして自分達の無知や罪を示され妬んで拒否したのである。その仕打ちを受けてイエス様は「預言者が敬われないのは」と語った。
それは郷里伝道は難しいということを越えて、イエス様がやがて人々の罪のために十字架にかけられることを預言していた。ヨハネ1:11「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」はナザレの人々からイスラエル人に拡大してその預言が成就したことである。その範囲は全人類にも拡大できる。けれども、続く1:12は「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」は排除されたイエスキリストを信じて受け入れる者が救いを受けて神の子どもとなると言っている。だからイエス様が排除されたことは神のご計画である。
そのご計画はイエス様が来られる遥か昔に旧約聖書に書かれていたが、イスラエル人にそれは隠されていて、彼らはその預言通りに神の御子イエスを十字架にかけてその預言を成就させた。けれども、それによって救いの道が開かれた。それ以来、全人類にイエスキリストを通して神の子どもとなる道が開かれている。幸いなことに私達はイエス様を信じて神の子どもとなることができた。さらにこの幸いをまだ知らない人々のために私達はみことばを伝えるが、「預言者が敬われないのは」と言ったイエス様と同じように伝道の困難を覚えることがある。けれども、この困難の向こうには天国がある。みことばを伝えることで天国に入る人を増やすことができる。だから時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝えよう。