詩篇106篇

“恵み豊かな神はあわれみ深い”  内田耕治師

 

105篇にはイスラエル人の悪い所は書いてないが、106篇はエジプトを出て以来、神に逆らい通しの悪い所ばかりが書いてある。歴史を見る見方が全然違う。6節「私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義を行い、悪を行ってきました」は詩人の歴史を見る視点を表す。

「先祖」とはエジプトを出て荒野を経てカナンの地に入って住んだイスラエル人だ。では「私たち」とはだれか?「先祖」よりもずっと後の時代に神に背いて災いを招き、悔い改めた人々だ。それはバビロン捕囚から祖国に帰って国の再建を始めた人々である。詩人は民族の歴史を振り返り“神に逆らい通しの我が民族は神のあわれみのゆえにようやく存在できた民だ”の視点で歴史を語る。まず過越のみわざによって解放されたイスラエル人は葦の海の前に来た時、追って来たエジプト軍を見て「荒野で死なせるつもりか」とモーセをののしり、これまでの神の導きを完全に否定した。しかし神はそれでも奇跡を起こして彼らを救い出した。

けれども主への反逆は続いた。キブロテ・ハタアワで飛んで来たウズラに食らいついて疫病にやられ、神が立てたモーセやアロンを否定するダタンやアビラムが現れてイスラエルは分裂の危機を迎え、神に逆らうだけでなくホレブやバアル・ぺオルでは偶像礼拝によって神そのものを否定した。飢え渇く彼らのために神はメリバで岩から出る水を与えたが、それでも彼らは神に逆らい続けた。

カナンの地に入ると、異邦の民の習わしを真似て、その偶像に仕え、自分の息子や娘を偶像に献げ、その国土を血でした。主の怒りは燃え上がり、彼らを他民族の手に渡し、彼らは支配され、虐げられた。それはバビロン捕囚のことだと考えられる。

けれども、神はそんな彼らを見捨てず、あわれみ続けた。彼らとの間に「契約」があったからだ。神はたとえイスラエル人が神を無視し否定してもその契約通りに彼らを守り導かれた。「主は彼らの苦しみに目を留められた。主は彼らのためにご自分の契約を思い起こし、―――彼らをあわれまれた」もしその契約がなかったら、イスラエル民族は滅んで存在しないであろう。

ところで、主がそうして下さることは、キリストにあって神に選ばれた私達も同じだ。私達もイスラエル人と同じように神に逆らい通しの者だが、神と恵みの契約で結ばれている。その恵みは私達がどん底に落とされたときに分かる。落ちぶれ人々から蔑まれても、神は私達との契約を忘れず、私達を見捨てず守り導いて下さるからだ。それが神のあわれみ深さだ。

しかも、その契約はこの世だけでなく天国まで続く。「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」というみことばがありましたが、それは神の契約はとこしえまでだから、私達は決して見捨てられることなく、試練を通されても何とか守られ導かれるのです。そういうわけで私達もキリストにあってとこしえまで続く恵みの契約にあることを何よりもまさる喜びとしていきましょう。