マタイ18:15-20

“神の願いは罪人の滅びではなく悔い改め”  内田耕治師

https://youtu.be/W9nL2Va2puY

教会は主を礼拝し、みことばを学び、キリストにある愛の交わりを築き、この世に福音を宣べ伝える所だが、罪はその営みを妨げる。だから罪が起こったら、それを適切に処理しなくてはならない。どんな教会にも戒規がある。戒規は執行しなくていいが幸いなことだが、たまに起こる罪を処理するために執行する必要性が出て来る。戒規はこの箇所に書かれたことを元にして作られている。

「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。」この世の会社や学校や芸能界では、不祥事が起こると、すぐ公表して問題の人へのバッシングが起こり追放に発展する。けれども、教会ではすぐには罪を公表しないしバッシングもしない。

人間は罪そのものよりも体面を保つこと、つまり名誉を守ることに気を遣う。自分の名誉を守るためなら、どんなことでもするし、もし自分の名誉を傷つけられたら、物凄く反発する。だから罪を軽々しく公表したら、その人は自分の名誉が傷つけられたと反発し、心を閉ざし、交わりから去ってしまう。だから、そうならないために1人が罪を指摘し、他の人達には問題が漏れないようにする。罪を犯した人も神が滅びることを望まない小さな者たちの1人だからである。

次に1人では埒が開かない場合には、ほかに1人か2人が関わる。それは旧約の律法から来ている。最初の1人と相性が合わなくても後の1人や2人と相性が合うかもしれないし、1人では罪を指摘し、憐れみをもって事情を聴くことの両方を行うのが難しいならば2人、3人いたほうが上手く行く場合がある。けれども、教会全体には知らせない。反発を招かないためである。そのために忍耐して静かに話したり聞いたりする必要がある。2ペテロ3章の「――あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」という神の忍耐から学ばなくてはならない。

忍耐の限り関わっても聞き入れず悔い改めない場合は最終的な手段を取る。それは教会つまり役員会で取り上げ、罪を公表することだ。でも、みことばを聞く機会を与え続けなくてはならない。

教会の戒規に陪餐(ばいさん)停止があるが、陪餐停止中でも説教を聞くことを妨げてはならない。人は真理のみことばを聞くことによって悔い改めに導かれるからだ。けれども、最後まで教会の言うことを聞き入れない場合「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」と言う。昔のユダヤ人にとってそういう人々は排除すべき存在だったから排除つまり除名にせよということだ。

この箇所は罪が何なのか具体的には語っていないが、異端の問題を考えるとよく分かる。残念ながらキリスト者と呼ばれる人達の中に僅かながら異端になってしまう人達がいるが、彼らが間違った教えを真理だと主張し、間違った行いを正しいと主張し、まったく悔い改めようとしなければ、教会に留まる理由はない。除名にせざるを得ない。「何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、――地上で解くことは天でも解かれます」罪人をさばく権威が私達に与えられている。けれども、その権威は神のみこころを心に留めながら慎重に忍耐をもって行わなくてはならない。神のみこころとは何か?それは罪人が滅びるのではなく悔い改めて救われることである。