マタイ18:5-14

“天の父は小さい者の1人を大切にする”  内田耕治師

https://youtu.be/dDpsjA8cExg

キリスト抜きで関わるとき何の壁もなくても“キリスト者”と言った途端に警戒する人達がいる。反対にキリストの名を出すとかえって関心を持つ人達もいる。そういう人達は導かれる。「子どもの1人をわたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れる」次に「子ども」が抜けて「小さい者の1人」に変わる。基本的にはキリスト者を表すが、もっと広い含意があるので最後まで「小さい者」という言い方が続く。

「小さい者の1人」をつまずかせることは大きな石臼を首にかけられて海の深みに沈められるほうがよい。それは「小さい者」の尊さを表す。だから私達は人をつまずかせないように気を付ける。

けれども「あなたの手と足」が他の人をつまずかせるのではなく「あなたをつまずかせるなら」「あなたの目」が他の人をつまずかせるのではなく「あなたをつまずかせるなら」と書いてある。

「この小さい者たちの1人を軽んじたりしないように気をつけなさい」自分を初めとした1人1人が神の前では尊い存在である。だから、その信仰を損なうようなものは思い切って排除せよと教える。「手や足を切り捨てなさい」とか「目を抉り出しなさい」とエゲツナイことを言うが、それはそれほど「小さい者の1人」は神の前に尊いものだからである。

プロテスタント教会では ‘‘御使い‘‘ という言葉をあまり言わないが、旧約聖書にも新約聖書にも御使いが出て来る。「彼らの御使いたち」とは私達1人1人に私達を守り、導き、みこころを伝える御使いがいることを表す。「彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ている」私達はキリスト者であるとしても、いつも神に目を向けているのではない。しばしば神のことを忘れて神から離れかかる。けれども、私達とともにある御使いはいつも神の御顔を見て、神とともにある。だから、しばしば神から離れかかる私達を御使いは神に引き戻してくれる。神にとって私達は尊い者だから。

小さい者の1人を大切にする神の姿勢は、1匹の迷える羊のたとえ話に明確に現れる。このたとえ話で大事なのは迷った1匹を羊飼いができる限りのことをして捜したことだ。ところで、私達はこのたとえ話を読むとき、初めは自分を1匹の迷った羊に当てはめて、迷った羊は自分だと考える。私達は迷っていたところ良い牧者であるキリストに見つけていただいた。しかしながら、そう考えると、もう1つのことが見えてくる。それは私達が迷った羊を捜す羊飼いでもあることだ。自分が救われた喜びは他の人達にも分かち合いたくなるのが自然だからだ。

自分は羊飼いだと自覚するなら99匹を山に残すことのリスクが分かる。羊飼いはリスクを抱えながら1匹の迷える羊を捜した。そのリスクは天の父が私達を救うために御子を十字架にかけたほどの愛を思い出させてくれる。その愛によって私達は救われて、今、羊飼いとなって迷う小さな者を捜している。神は私達の弱さをカバーして羊飼いとしてくださる。現代社会は収益の上がる99匹を守り、捜すのに手間のかかる迷える1匹は見捨てる風潮がある。でも、神の愛を表すこのたとえ話はその風潮に打ち勝つ力を与えて私達を迷える羊を捜す羊飼いとしてくれるはずだ。