マタイ19:1-12

“結婚するもしないも神の栄光のため”  内田耕治師

https://youtu.be/MhUYEm3UVtk

結婚は創世記2章に出て来る。4章の親子関係よりも早い。結婚から子供が生まれ子孫が続いていく。結婚は人類の祝福につながる最も基本的な人間関係だ。だが創世記3章でアダムとエバが罪を犯し、人類が神の前に罪ある者となったために夫の権威が度を越えて高くなった。古代から近代に至るまで男性優位の社会が続いた。現代は女性の地位が向上したが世界にはそうでない地域もある。

イエス様の時代のユダヤも男性優位の社会であり、それが結婚の制度に色濃く表れていた。パリサイ人達はその問題でイエス様を罠にかけるために「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているのか」と議論をふっかけてきた。イエス様は初めから離婚に関する律法の議論に入らず結婚の基本的な教えから話を始めた。「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」だから神が結び合わせたものを人が引き離してはならない。ところが、当時はその基本が曲げられ夫は妻が気に入らなくなったら何か理由をつけて追い出すことが出来ると考えた。

しかも、一見それを認めるような「離縁状を渡して妻を離縁せよ」の規定があった。申命記24章の離縁の規定全体には「彼女を去らせた初めの夫は、――再び彼女を自分の妻とすることができない」とあり、妻を去らせた夫は後で自分が悪かったことを認めても再び妻とよりも戻すことはできなかった。またこの規定は虐待する酷い夫から妻を解放するためでもあった。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許した」だからこの規定は使わなければ、それに越したことはないものだった。

イエス様はこの規定を気軽に使うことを防ぐために、妻が姦淫という重大な罪を犯した場合以外は使ってはならない、もし姦淫ではないのに妻を追い出し、別の女を妻としたら、それは夫が姦淫の罪を犯すことだという条件を付けることで身勝手な夫を戒めて、結婚関係で夫と妻が同じ権利を持つようにした。それは妻をまず人間として尊重するためである。けれども、イエス様が言うことは当時、一般の人々のみならず弟子達さえも受け入れがたい先進的なことだった。けれども、イエス様は激しい反発があるのは承知の上で、あえて当時の結婚の問題を取り上げた。癒しをよく行ったイエス様は人々に愛され人気があったが、歪んだ制度や社会に対して、だれも賛同してくれなくても声をあげ、そのために迫害され、行き着く先は十字架となり、何も改革できなかったように見える。しかし、その声は聖書に記された。私達は聖書を読むことを通してその声を聞き、励ましを受け、歪んだ制度や社会を改革する情熱を学ぶことができる。

なぜキリスト教に宗教改革が起こったのか? 聖書を読めば分かる。宗教改革者達は、歪んだものを改革しようとしたイエス様に倣い、無理に見えても教会を改革しようとして、神の恵みによって改革を成し遂げることができた。今の私達の周りにも歪んだものがたくさんある。制度や社会だけでなく私達のうちにも歪んだものがあるが、諦めてあまり考えないことがある。けれども神が私達をこの世に遣わしたのは歪んだものを直すためだ。私達も小さな改革者にしていただこう。