エレミヤ51:59-64
“さばく者がさばかれる神のご計画” 内田耕治師
預言者エレミヤはセラヤにゼデキヤ王とともにバビロンに行ってそこに住む捕囚の民にある書物の読み聞かせを命じた。その書物の内容はおそらく50-51章のことだ。読み聞かせた後、その書物に石を結び付けユーフラテス川に沈めることも命じた。それはバビロンの滅びを表した。
25:8-11 バビロンは、主に背を向けて偶像の神々に心を寄せていた南ユダ王国の人々をさばいて主に立ち返らせるために遣わされた神のしもべである。バビロンは南王国だけでなく、その周囲の諸国民をもさばくためにも遣わされた。46章はエジプト、47章はペリシテ人、48章はモアブ、49章はアンモン人、エドム、ダマスコ、エラムのさばきである。
ところが50,51章は南王国や諸国民をさばいたバビロンがさばかれて滅びることを預言する。50:17-18「主はかつてアッシリアの王を罰したようにバビロンの王とその地を罰する」51:34-35「私と私の肉親になされた暴虐がバビロンに降りかかれ」諸国民をさばいたバビロンがさばかれ滅ぼされる理由は、まず彼らが中東世界を征服するときに行った数々の残虐行為である。51:20-24「あなたによって年寄りも幼い者も砕き、」彼らは戦闘員だけでなく一般市民もたくさん殺害した。その罪によってバビロンは滅びに定められた。
その滅びはイスラエルの神こそが真の神であることを表した。古代では、国家や王は偶像の神々によって権威付けられた。バビロンならベルやメロダクがいたが、バビロンの滅びによってベルやメロダクの権威は地に落ち、バビロンは神に裁かれるしもべに過ぎないことが明らかになった。
長い歴史で基本的に同じことが起こっている。皇帝を礼拝するローマ帝国が滅んで結局、皇帝は神でないことが明らかになり、徳川家康は日光の東照宮で神として祭り上げられたが幕府は滅んで家康は神ではないことが明らかになり、日本は天皇を現人神としたが、惨めな敗戦をして天皇は人間宣言をして神でないことが明らかになった。だから神のしもべに過ぎない権力者を神とするのは間違いであり、権力者を高めるための偶像を拝むことも空しい。だから万物を創造した真の神だけを神としなくてはならない。
捕囚の民が母国にいた頃、信仰の危機にあったが、バビロンに連れて来られてからもその危機は続いていた。なぜならバビロンは偶像が蔓延る異教社会であり、ダニエル3章で王が金の像を造ってすべての役人達に強制的に拝ませようとした国だからだ。順応しようとして偶像礼拝を受け入れ、社会に埋没する危険性があった。そんな彼らにとってバビロンの滅びの預言は、真の神とは何か?権力者とは何者か?偶像とは何か?信仰の基本を教えるものだった。その後、彼らは神殿を失った代わりに会堂礼拝を始めて、みことばに耳を傾けるようになり、死にかけた信仰をよみがえらせ、会堂を中心としてユダヤ人のコミュニテイーを築きあげ、異教社会の中でユダヤ人のアイデンティティーを守り抜き、捕囚の時代を乗り越えることができた。ところで、私達も同じようにユダヤ人の会堂が起源である教会を中心としてキリスト者のコミュニテイーを築き上げ、みことばに耳を傾けて祈りに励み、信仰者の交わりをすることで日本の異教社会の中でキリスト者としてのアイデンティティーを守っている。その営みによって私達は主にあって成長し発展することができる。
私達にとって教会に集まって一緒にみことばを学び、祈り、交わりをすることは非常に大きな力になります。その力によってこの日本という異教社会で信仰を保ち、さらに福音を多くの方々に伝えて行くことができます。だから、コロナ禍ではありますが、教会に集まってみことばを学んだり、祈ったり、交わりをしたりというごく普通の教会生活を大切にしていきましょう。