哀歌1:1-7
“悲しむ者は幸いです” 内田耕治師
「哀歌」の表題はへブル語原典では「エ―カ―(ああ)」嘆きの言葉だ。「哀歌」は70人訳でつけられた表題だ。著者は書かれていないが、伝統的にエレミヤとされている。彼は神に背を向けて偶像の神々を拝むイスラエル人に“偶像を捨てて神に立ち返りなさい”と語った。またバビロン帝国が台頭してきたとき“バビロンは南王国の罪をさばくために神が遣わしたしもべだからバビロンに降伏して従え。そうすれば、やがて祝福を受ける”と語った。彼は同国人に迫害され、命がけでみことばを語った。
けれども、イスラエル人は悔い改めず、神のしもべバビロンに反旗を翻したため、バビロン軍が総攻撃をしてエルサレムは陥落し、神殿は破壊され、多くの人々が捕囚の民となり、廃墟だけが残り、エレミヤの努力も空しく南ユダ王国は滅亡した。だからエレミヤは「ああ」と嘆きながら哀歌を書いた。1:1「ああ、ひとり寂しく座っている。人で満ちていた都が。彼女はやもめのようになった。国々の間で力に満ちていた者、もろもろの州の女王が、苦役に服することになった」「彼女」とはエルサレムのことだ。「彼女」は1節から11節まで続く。
女王のようなエルサレムは、今は奴隷として苦役に服する。かつて同盟関係があった国々は裏切り、攻撃する側に回った。エルサレムの人々は捕囚の身となって苦しみ、かつてはチヤホヤされていたが今は落ちぶれて人々から揶揄われ、蔑まれ、慰めを求めてもだれも慰めてくれず、聖なる神殿を他民族に荒らされて屈辱を味わい、貧しさのどん底に喘いでいた。
12節からは「彼女」は消え「私」となり最後まで続く。「私」は南王国の滅亡をよりエレミヤ自身の苦しみとして表す。その苦しみを「私の骨の中に火を送り込んだ」「荒れすさんだ女」「病んでいる女」「私の背のくびきは重い」「私は泣いている」で具体的に描写。苦しみとはだれも慰める者がいない孤独感だ。またその苦しみは主に逆らったことから来ていた。「主は正しい方である。しかし、私は主の命令に逆らった。すべての国々の民よ、聞け。私の苦痛を見よ。」
エレミヤは“私があれほど語ったのに、あなたがたは聞こうとしなかったから、こんなことになった”という反発を招く言い方はしないで自分も主に逆らったイスラエル人の1人として人々と連帯して罪を告白した。それはその告白に倣う人達が現れ、悔い改めが人々に徐々に広がり、やがて民族的な悔い改めが起こるためである。彼は母国の滅亡とバビロン捕囚という民族的な苦悩を嘆きながら、その嘆きの中でも希望を見ていた。
私達にも嘆くことはたくさんある。嘆いて他人からの慰めを必要とすることがあるが、嘆くことがキッカケで悔い改めに導かれる。個人だけでなく家族、教会、民族、国家など共同体としての悔い改めもある。事が済む前はできる限り警告すべきだが、事が済んだ後は“あれほど言ったのに”という言い方は対立を生むだけだから、むしろエレミヤのように罪を連帯して負うことが大切だ。私達はもともと主の前では1人の罪人だから、自分だけが高い位置に立ち、他の人々をさばくことはできない。さばく者ではなく連帯して罪を負う者となることで悔い改めが広がれば幸いだ。