哀歌3:1-33
“私は待ち望む。主の恵みを” 内田耕治師
“あんなに命がけでみことばを語って警告してきたのに人々は聞かず、祖国は滅んだ。なんてことか”エレミヤの嘆きは「ああ」という言葉になって各章に出て来る。1章、2章、4章は「ああ」から章が始まる。5章は冒頭ではないが、途中で「ああ」が出て来る。けれども3章には「ああ」がない。それは、しばらく続いた嘆きが止んで、受けて来た苦難を過去のこととして冷静に受け止めたことを表す。次にエレミヤは「私たち」という言い方で自分も含めてイスラエル人が主に逆らったために神にさばかれてエルサレムの陥落、人々の捕囚、南王国の滅亡という苦難を招いたことを語る。これも苦難の現実を過去のこととして冷静に受け止めている。
次にエレミヤは苦難の現実を受け止めただけでなく、その苦難の中で将来の希望を見ている。祖国は滅びたけれども「私たちは滅び失せなかった」つまり“国が滅んで私達は捕囚の民となったけれども、滅んでいない、まだ生きている。死んだら終わりだが、生きているから希望がある”と言う。
しかし聖書は「あなたは生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」とも言うから生きていれば自動的に希望があるのではない。“生きているから希望がある”と言えることには何か理由がある。その理由とは主だ。「主こそ、私への割り当てです」「割り当て」とは相続地。昔は土地さえあれば、そこに種を蒔けば収穫があるから相続地は希望の源だった。エレミヤはそれを用いて自分には主という相続地がある、主こそが希望の源だ。だから「私は主を待ち望む」と言った。当時、イスラエル人は祖国にあった相続地や家や持ち物をすべて失ってバビロンに来た。そんな彼らにエレミヤは“何もなくても主がおられたら大丈夫”と教えたのである。
エレミヤは主はいつくしみ深いお方だから、主を待ち望みなさいと勧めたが、大事なことはどのように待ち望むか?その待ち望み方を具体的に教えた点だ。たとえば「静まって待ち望むのは良い」「静まって座っていよ」この場合、静かとは何も音がないことではなく、派手さはなくても地道に長続きさせることだ。サッカー選手の歓喜の声の背後には、彼らの長く地道な練習があることを考えよう。「口を土のちりにつけよ」「自分を打つ者に頬を向け、十分に恥辱を受けよ」祖国が滅亡してバビロンに連れて来られたイスラエル人を、バビロンの人々がどう迎えたか? 尊敬ではなく蔑みの眼差しで迎えたはずだ。彼らにとってバビロンは居心地のいい所ではなかったが、捕囚の身である彼らはそこで暮らしていかざるを得ない。彼らには主に期待して耐え忍ぶことが必要だった。
ところで、私達は自分の国に住んでいるが、私達もバビロンのイスラエル人のように自分の国でも外国に住むかのように疎外感を抱いて暮らすことがある。また本当に口を土のちりにつけたり自分を打つ者に頬を向けることはないが、人の眼差しや言葉によって心の中ではそうなるかもしれない。私達はその現実から逃げ出すことができない。こういう問題ではイスラエル人も私達も全く同じだ。そんな中で主に期待し耐え忍んでいくために次のみことばが与えられている。「主は、いつまでも見放してはおられない。主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。主が人の子らを意味もなく、苦しめ悩ませることはない」もし今、問題を抱えて悩んでいるなら、これらのみことばを心に留めて問題の中でも希望をもって歩んで行こう。