マタイ19:10-12、22:29-30
“独身者の恵み” 内田耕治師
イエス様は夫の特権を大切にし、妻をないがしろにするユダヤの結婚制度を改革し、夫と妻の立場を等しくしようとしたが、弟子達は「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがまし」と反発して“独身生活をする”と言い出した。イエス様はそれをキッカケにして話題を変えて独身者について教え始めた。多くの人々が人は大人になったら結婚する、それが人の定めだと考える。けれども、結婚だけが人生ではない、独身の道もある。
結婚生活の恵みは皆がよく知っているから聖書はむしろ皆があまり知らない独身者の恵みについて語る。独身だったパウロは第一コリント7章でその恵みをたくさん語った。それは、時間があり束縛が少ないから主のことにより多く心を配り、主にたくさん奉仕できることだ。パウロが良い例だ。ところでイエス様も約33歳で十字架にかかるまで生涯、独身だった。当時としてはその年齢に至るまで独身であるとは非常に珍しかった。「天の御国のために自分から独身者になった人達」はまずイエス様ご自身のことだ。
ところで独身に関するみことばにイエス様とパウロで違いがある。パウロはその勧めを結婚か独身か自分で選ぶことができる人達に語ったが、イエス様は独身にならざるを得なかった人達にも語った。「母の胎から独身者として生まれた人達」生まれながらに何らかの障害があり結婚できない人は、皆が結婚する中で他人とは違う生き方をする自分は何者かと考え込むかもしれないが、それは人に言われてではなく自分が受け入れるべきことだから「受け入れることができる人は」と語った。
「人から独身者にさせられた人達」とはだれか?昔は、宦官(かんがん)という去勢された男性がいた。使徒8章のエチオピア人の宦官は有名だ。高い地位にありながら生殖機能を奪われた彼らはどう思ったか?イエス様は彼らにも「それを受け入れることができる人は、受け入れなさい」と語った。
では、何を受け入れるのか?独身生活だが、それを突き詰めると子孫を残せないことだ。子孫を残すことは人類にとって非常に大切な営みだ。昔は、子を産むことができない女性は自分を恥じて辛い立場に置かれた。アブラハムの妻サラはその良い例だ。イザヤ56章の“私は枯れ木だ”という宦官の言葉も子孫を残すことができない悔しさを表す。
けれども、独身を貫いたイエス様は子孫を残す残さないとは関係なしに1人の人生は神の前に尊いものだと語った。「それを受け入れることができる人は、それを受け入れなさい」とは言い方を変えると“わたしのように独身であることを恥じることなく生きなさい”ということだ。またイエス様がそう勧める背後には、世の終わりの復活の信仰がある。世の終わりには私達は復活したイエス様と同じように復活の体が与えられて天国に入る。復活の体とはどんなものか?「――復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです」私達はみんなが独身になり、子孫を残すことはなくなり、天国では主とともにある聖徒の交わりを喜びとする。この世ではある人は子孫を残し、ある人は子孫を残せない。けれども天国ではそんなことは問題ではない。結婚していようと独身であろうと皆が独身となる天国を希望としていこう。