出エジプト記2:1-11,12:21-24
“水から引き出された男の子” 内田耕治師
クリスマスにモーセの名前はあまり出て来ないし出エジプト記はあまり読まれないが、実はモーセも出エジプト記もクリスマスに関りが深い。ヨセフを通してエジプトに移住したイスラエル人は初め良かったが、ヨセフを知らない新しい王が出てからは奴隷にされ、過酷な労働で虐待され、それでもイスラエル人は増えるので王は“生れた子で男の子は殺して女の子は生かしておけ”と命じた。神を恐れる2人の助産婦は幼子の命を守ろうとしたが、そのうちに王は“生れた男の子はすぐにナイル川に投げ込め”と命令し、彼らは苦しめられていた。
そんな頃、レビ人の家に1人の男の子が生まれた。両親は3ケ月間、家に隠していたが隠し切れなくなり、防水を施したパピルスのかごを作り、その子を中に入れ、川の茂みの中に置き、姉が見守った。すると王の娘が来て、かごの中で泣く男の子を見つけた。父が出した命令を知っていた彼女はその子を見て“可哀そう”に思った。とっさに姉は「私が行って、へブル人の中から乳母を呼んで参りましょうか」と尋ね、王女はお願いし、実の母親が連れて来られると王女は「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください」と頼んだ。王女はその子が生き延びるためには“自分の子にするほかない”と考えてその子を引き取る決心をしたようだ。その子は実の母親がある程度、育ててから王宮に連れて来られ、王女の息子になり、モーセと名づけられた。モーセは多くの幼子が殺される中でかろうじて生き延びることができた。
イエス様もモーセと同じように危い状況で生まれてきた。聖霊によるマリアの懐妊を初め理解できなかったヨセフが、もしその通りに離縁したら今と違い母子家庭では生きる術がない当時ではどうなったか?彼が夢に示された御告げに従ったからこそイエス様は無事生まれて来ることができた。ベツレヘムで生まれてからも危機があった。東方の博士達の「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の言葉にヘロデ王は“王位を狙う者が現れた”と猜疑心を抱いてイエス様の命を狙ったが、博士達が去った後、ヨセフは夢に示された御告げを聞き、すぐにエジプトに逃げたので命拾いをした。イエス様も多くの幼子が殺される中でかろうじて生き延びることができたのである。またモーセもイエス様も血のつながりはないけれども、王の息子やダビデの子孫になることができた。共通点がたくさんある。だからモーセは、やがて来られるイエス様をあらかじめ表している。
けれども、モーセとイエス様の間には1つの決定的な違いがある。その違いとはモーセは過越の日にイスラエル人に過越の子羊を屠らせ、その血を家の門柱と鴨居に塗らせたが、モーセ自身は血を流すことはなかった。けれどもイエス様は十字架にかかり、その血を流されたことだ。モーセは過越の子羊の血でイスラエル人を奴隷から解放したが、イエス様はご自身の血によって私達に罪の赦しを与えて救ってくださった。モーセの生い立ちを見てその共通点からその後に来られたイエス様を見ることができるが、モーセがささげた過越の子羊を通して十字架にかかられた神の子羊イエス様を見ることができる。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」クリスマスとは、大きくなってから私達の罪のために十字架にかかり、その血を流されたイエス様の誕生を祝う時である。多くの幼子が殺される中でかろうじて生き延びることができたイエス様を喜び、感謝しよう。