マタイ1:1-17
“すべての人を祝福するイエスキリスト” 内田耕治師
マタイ1章の系図は、人類を祝福する神のご計画が1つの民族から始まったことを表す。神はそのご計画のためにイスラエル人を選んだのである。イスラエルの最初の人アブラハムにそのご計画は示された。約束の地に行けば祝福され大いなる国民となる。子がいなかったアブラハムにとって祝福とは子供が与えられることだったが、神のご計画は彼のある子孫が“すべての人々を祝福する”ことだった。その子孫とはイエスキリストである。“すべての人々”とはイエス様を通してどの民族や国の人もどんな社会的地位の人も祝福することだが、それが系図に現れる。「ルツ」はモアブ人、「ウリヤの妻」はヒッタイト人、「ラハブ」はおそらくカナン人。系図にこれら外国人の名前があることがその証拠だ。
祝福とは罪の赦しであるが、罪の赦しを得るためには主の前に罪をオープンにする必要がある。
詩篇32篇でダビデは主に罪を告白して赦された幸いを語っている。それにならってこの系図とその背後にある旧約聖書はイエス様の先祖の罪について出来る限りオープンに語っている。それは罪を赦すイエスキリストが来られるための前準備と言える。
先祖の罪とは次の事柄である。「ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み」創世記38章を参照。ユダはいかがわしいし方で子孫を残した。「ラハブ」は彼女はエリコで遊女だった。国民に愛され、神に従う王ダビデも「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」と家来の妻との不適切な関係が神を悲しませた。ソロモンは初め非常に信仰的な人だったが、様々な政略結婚を通して父ダビデ以上に多くの妻を、特に外国出身の妻達を持ち、彼らを通して偶像礼拝が入って来て、晩年のソロモンは主から離れた。ソロモンは神殿建設のための税の取り立て、重労働の強制、贅沢などで民を苦しめ、息子のレハブアムのとき、国が2つに分裂する原因を作った。それ以後、ヒゼキヤやヨシヤのように神に従う良い王もいたが、彼らの闇の部分も聖書はキチンと記している。また神に従わず偶像礼拝を行う悪い王達がたくさんいた。アタルヤの時の醜い内部抗争、マナセの時の大虐殺などダビデ王朝が続いたからと言って、決して国は安定することはなかった。
またこの系図は、ダビデの子孫の没落をオープンにする。ダビデは羊飼いからイスラエルの王に登り詰めた英雄であり、その子孫は次々に王となり、ダビデ王朝が続いた。この世的に言えば名門だ。けれどもバビロンに捕囚でダビデ王朝は途絶えた。その後のダビデの子孫は続いたが、どんどん没落して名前だけ記録される人々になりイエス様の父親となるヨセフは貧しい大工だった。王から貧しい大工とは、ずいぶん落差の大きい。けれども、その没落はある大切な神のご計画を表す。神の御子が神のあり方を捨てて天から降り、私達と同じ人として、しかも貧しく、仕える者としてこの世に来られたことだ。それは私達に罪の赦しを与え、神の子とするためだ。それがすべての人を祝福することだ。“主は豊かであったのに、貧しくなられた。私たちが主にあって豊かになるために”この歌詞は私達を祝福するために低くなられたイエス様を上手く表す。クリスマスとは“私たちが主にあって豊かなるために、貧しくなられた”イエス様の誕生を喜び、お祝いするときだ。今年もそのようなイエス様の誕生を喜んで、その喜びを多くの人達に伝えることができれば幸いである。