ヨハネ1:1-3,9-14,ルカ2:1-7
“人となられたイエスは神” 内田耕治師
メリークリスマス!生れてから2022回も誕生日を祝ってもらえる人はイエス様の他にいない。クリスマスと言うと、マタイやルカに描かれた降誕の出来事を思い出すが、ヨハネにはそれらが1つも書いてなくて抽象的で哲学的な言説だけが書いてあり、その後はヨハネからバプテスマを受けたイエス様をヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言う所だ。しかし、その言説はクリスマスの本質をマタイやルカ以上にズバリ語る。イエス様が永遠の神であることから議論は始まる。
冒頭の「初めにことばがあった」は創世記1:1「初めに神が天と地を創造された」をベースにして書かれた。「初めに」は天地が存在する前から神がいたことを示唆し、神の永遠性につながる。「ことば」はイエス様。だからイエス様は永遠に存在する。「ことばは神とともにあった」イエス様は神とともにおられた。「ことばは神であった」イエス様は神である。その証拠が「すべてのものは、この方によって造られた。この方によらずにできたものは1つもない」である。イエス様は天地の造り主と同一本質の神である。
「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」イエス様は永遠から私達のいる世界に来られた。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」イエス様はこの世界を造ったお方なのに、世にいる人々はイエス様を全く知らず、イエス様はひっそりとお生まれになった。ルカ2章にはそのことが記されている。「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」イスラエル人は初めはイエス様を歓迎したが、そのうちに迫害し最後は十字架にかけた。それは神のご計画だった。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」神であるイエス様は、私達と全く同じ人として来られた。十字架の上で血を流すためである。へブル9:22「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」イエス様が人々の罪を取り除くためには血を流すことができる肉体が必要。旧約時代、イスラエル人は牛や羊など動物の血をささげたが、動物の血では罪の赦しはない。罪のないイエス様の血が必要。「人」は原典ギリシャ語で“サルクス”で「肉」の意味。「受肉」という神学用語がある。イエス様は永遠の神であるだけでは救い主になれない。受肉して肉と血を持つことで私達の救い主となられた。これがクリスマスの本質だ。それは十字架まで考えなければ分からない。
昔、このクリスマスの本質を否定した異端がいた。“イエス様の体は幻想であり肉体はなく霊的な存在だ”と教えて純朴な信者の信仰を覆していた。けれども霊だけのイエス様は、血を流すことができないから、私達の罪を取り除く神の子羊になれない。イエス様は血を流す肉体があるからこそ私達の救い主になれた。神の子羊として血を流して下さったイエス様を知り、信じることで私達は救われた。親がクリスチャンとか先祖が偉大な信仰者ということは関係ない。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」
クリスマスはイエス様が人として生まれたことを喜び、祝う時であるが、サンタクロースばかりでイエス様が締め出された感じがある。「ことばが人となった」ことを大事にして宣べ伝えよう。