創世記37:1-30、ピリピ2:6-9
“失われた父の愛する子” 内田耕治師
創世記のヨセフの物語は非常に面白く感動的だが、最初の37章には違和感を覚えるところが幾つかある。普通、親は子供達を平等に愛することを心がけるものだが、父ヤコブは他の11人の息子達が妬むことが分かっていながらお構いなしに、ヨセフにだけ袖付きの長服を作り、特別に愛を注いでいた。ヤコブの愛はヨセフに片寄っていた。そこに違和感を覚える。
その後、ヨセフは2つの夢を見た。初めの夢ではヨセフの束が起き上がってまっすぐに立ち、兄達の束が周りに来てヨセフの束を伏し拝んだ。それを聞いた兄達はヨセフを憎んだ。次の夢では太陽と月と11の星がヨセフを伏し拝んだ。それを聞いた父ヤコブはさすがに問題を感じてヨセフを叱った。兄達は頭に来てヨセフを妬んだ。“皆が自分を伏し拝むようになる”と無邪気に言ったヨセフはよほど世間知らずの未熟な若造だ。兄達に憎まれてし方がない。兄達はそんなヨセフを“殺してやる”と言い出した。ユダの提案で彼をエジプトに行く商人達に奴隷として売り渡してヨセフは何とか命だけは助かったが、肉親でありながら、そこまでやった兄達にも違和感を覚える。
けれども、そんな酷いことが起こったからこそ、その後、ヨセフが家族を大飢饉から救う不思議な神のご計画が進んだ。エジプトに連れて行かれたヨセフはその後、不思議な導きによって王の夢を解き明かして王に認められてエジプトの穀物を管理する支配者になり、大飢饉のとき、穀物を買いに来た兄達と再会し、家族をエジプトに移住させて飢饉から救い出した。「神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました」このようなヨセフは、私達を罪から救い出したイエスキリストを表す。まず父ヤコブのヨセフに対する愛は片寄っているが、その愛は父なる神の御子イエスに対する愛を表す。神の御子に対する愛は、神の私達に対する愛の土台である。
兄達が弟ヨセフを父から引き離してエジプトに売り飛ばしたことは、御子が神のあり方を捨てて人となられたことを表す。もしヨセフがヤコブのもとにとどまっていたら、神のご計画は始まらなかった。ヨセフが売られてエジプトに連れて行かれたからこそ、神のご計画が動き出し、やがて彼はその家族を飢饉から救い出すことができた。イエス様も同じだ。もしイエス様が御子として神とともに天にとどまり、天から私達を見ているだけなら、私達を救う神のご計画は始まらなかった。神のあり方を捨てて天から降り、人となったからこそ、私達を救う神のご計画は動き出した。だから私達は毎年クリスマスに神の御子がマリアを通して人として生まれたことを喜んでお祝いする。
最後に違和感のある“伏し拝む”という言葉は、兄達がヨセフの前にひれ伏すことを預言するだけでなく、やがて多くの人々がイエスキリストを伏し拝むようになることを預言している。その預言通りに私達は今イエスキリストを伏し拝んでいる。神は、若いヨセフの世間知らずで未熟なところを用いて“皆さんは私を伏し拝むようになる”と言わせた。人間的に見たら、とんでもない失言だが、神のご計画のうちに語られた言葉だったので、そこから神のご計画が動き出した。そう考えたら違和感はなくなり、神は偉大さを見ることができる。今年のクリスマスも不思議なご計画に従って愛する御子を人としてこの世に遣わした偉大な神をほめたたえ、御子キリストを宣べ伝えよう。