マタイ14:22-33、へブル12:2

”主イエスから目を逸らすな、信仰の薄い者“  内田耕治師

 

水上歩行の奇跡は未信者の人は“まさか”と言うかもしれないが書かれた通りに読み、霊的な意味をくみ取る。5000人の給食の奇跡で群衆を満腹にさせるとイエス様は「すぐに」弟子達を舟で向こう岸に行かせ、ご自身は祈るために1人で山に登り、群衆との交わりを避けた。ヨハネ6章には群衆がイエス様を王にするために連れて行こうとしたという交わりを避けた理由が書いてある。

神のご計画はイエス様がこの世の王ではなく十字架にかかって神の国の王となることだからである。一方、弟子達を舟で向こう岸に行かせたことには小さな試練を通して彼らの信仰を引き上げるご計画があった。真夜中、少々強い向かい風で弟子達の舟は思うように進まなかった。この風や波の霊的な意味は、この世の煩いや誘惑など私達の信仰を妨げる様々なもののことである。

そんな時、弟子達にイエス様が湖の上を歩いて近づいて来た。「幽霊だ」と彼らは怯えた。これは霊的にはイエス様以外の様々なものによって心が占領されてイエス様に目が向いていなかったことを表す。私達も同じことがあるが、だからこそへブル12章は「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」のみことばがある。

だからイエス様はご自分に目を向けさせるために「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語りかけた。弟子達を代表してペテロが「主よ、あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」と言い出した。するとイエス様は「来なさい」とペテロを水の上を歩くことに招いた。それは信仰を引き上げるための試練だった。

ペテロはイエス様に目を向けているうちはスムーズに歩けたが、「強風を見て怖くなった」途端に沈みかけた。これは周りに何があってもイエス様から目を離さないようにするテストだった。沈みかけたペテロをイエス様は「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言ったが、主から目を離すことは主を完璧には信頼できなくて疑うことを表す。私達も彼と同じような弱さを抱えている。

沈みかけたペテロが「主よ、助けてください」と叫ぶと、イエス様は手を伸ばして彼をつかみ、2人が舟に乗り込むと、風はやんだ。ペテロと弟子達はイエス様をますます信頼すべきお方だと悟ることができ、「まことに、あなたは神の子です」と言って主を礼拝した。だから水上歩行の試練は、彼らの信仰の成長のために益となった。

私達は水に沈みかけることはなくても、時々、人間関係や勉強や仕事で“沈みかける”気持ちになる。そんな時、主に助けを求めざるを得なくなる。けれども、それは私達の信仰が成長する機会でもある。そのことが分かっている私達は、試練に関して信仰のない人々とはまったく違う言い方をする。信仰のない人達はよく“神も仏もあるものか”と言う。けれども私達は信仰の成長のために試練を与える神を信じているから詩篇119:71「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました」と言うことができるのである。