マタイ15:1-9、1ヨハネ4:20-21

“神を愛することは隣人を愛すること”  内田耕治師

 

弟子達が長老達の言い伝えを破って手を洗わないでパンを食べたことを取り上げてパリサイ人や律法学者はイエス様を批判した。彼らが問題にしたのは衛生面ではなく宗教的な汚れである。けれども、イエス様はその批判をキッカケにして別の言い伝えのことで彼らに論争を挑んだ。

イエス様は「“だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になりますと言う者は、その物をもって父を敬ってはならない”と。こうしてあなたがたは、自分達の言い伝えのために神のことばを無にした」と彼らの問題を鋭く指摘した。神に多くのささげ物をして貢献すれば親は蔑ろにしてもいいという考えは、家族を顧みなくてもよく働いて金を稼げば、それが家族を愛することだの考えと似ている。神に感謝してささげ物をするのも親に感謝してプレゼントするのも共に大切であり必要であり比較はできないことだ。だから、それを覆す彼らをイエス様は「偽善者たち」と罵り、イザヤ29章を引用して厳しく非難した。

彼らの問題はみことばを無にすることで両親を蔑ろにしてでも神を第一にせよと教えたことである。彼らの信仰は明らかに片寄っているが、片寄った信仰は他にも出て来る。良いサマリヤ人のたとえ話で強盗に半殺しにされた人を祭司やレビ人が見ても助けなかったのは、血や死体に触ることで自分が汚れて神の奉仕ができなくなることを恐れたことにある。彼らは目の前にいる助けが必要な人よりも自分の聖さを保つことを大事にした。問題は神のことを大事にしながら隣人を蔑ろにしたことにある。またその傾向はとんでもないほどエスカレートする。ヨハネ16章「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時が来ます」現在に至るまでその通りのことが起こっている。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです」このみことばは以上の問題に対する的確な答えだ。神を愛すると言いながら人を愛することを教えないパリサイ人や律法学者は偽り者であり、神に奉仕するために人を殺す者も勿論、偽り者である。

それは他人事ではなく私達も似た問題を抱えることを知る必要がある。私達は相性の合う人とは上手く行っても相性の合わない人とはなかなか上手く行かない。私達はだれでも人間関係の罪がある。その罪はイエス様の血によって赦されるが、赦されて終わりではなく、むしろ始まりである。そこから自分が関わる隣人達を何とか愛する課題が与えられ、各自が努力を始める。その課題は、だれもが悪戦苦闘するが、放棄することはできない。愛そうと努める際“自分は神にこんなに奉仕し貢献してきたから人のことはそんなに構わなくていいだろう”と間違っても思ってはならない。神を愛することは隣人を愛することだからである。