マタイ27:45-54
“捨てられた神の御子はあなたの救い”  内田耕治師

イエス様の十字架は詩篇22篇の預言の通りに進行した。主は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫び、人々から嘲られ、衣服をくじ引きで奪われた。「エリ、エリ、―」つまり「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とイエス様は十字架にかかり贖いの代価としてご自身の命を捨てることを恐れ怯えた。

最初に殉教したステパノは勇敢に死んで行ったのにイエス様はどうしてそんなに恐れ怯えながら死んだのか?と首を傾げる人がいるが、その理由はステパノは人類の罪を負わなかったが、イエス様は罪がないのに人類の罪を負ったからである。またイエス様は神であるとともに私達と同じ血もあり肉もあり涙もあり恐れを覚える人間だったからである。

イエス様が息を引き取ったとき「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という不思議な現象が起こった。神殿には聖所と至聖所があった。聖所は祭司達がいつも礼拝をする場所だが、至聖所は神がおられる所であり、大祭司だけが年に一度、動物の血を携えて入った。そして聖所と至聖所を仕切る幕は、人間の罪がきよい神との交わりを妨げていることを表していた。

けれどもイエス様が十字架で尊い血を流したことによってその幕が裂かれた。それは私達の罪が主の血によって取り除かれて私達が神と交わりが持てるようになったこと、つまり救いの道が開かれたことだ。神殿の幕が裂けると「地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った」不思議な現象が起こった。これはマタイ伝だけの記事である。

百人隊長らは、その不思議な現象を見て「この方は本当に神の子であった」と御子をほめたたえた。まだ世の終わりは来ていないのに死者の復活とは何事か?理解に苦しむが、どう解釈すべきか考えよう。私達が聖書を通して知っていることは主の復活後、弟子達が聖霊を注がれて宣教を始めて主を信じる者が次々に起こされ迫害があっても宣教が目覚ましく前進して行ったことである。

百人隊長らは異邦人であり、聖書もメシアも知らない。彼らが知っていたことはユダヤ人の王という罪状のイエスを十字架刑に処し、その埋葬を確認したことである。けれども、そのイエスが復活し、宣教が目覚ましく前進したことを見聞きして感銘を受け、御子をほめたたえた。彼らのような人達は今もたくさんいる。権力もなく軍隊もなく1人も殺さず傷つけずにご自身の命を捨てたことによって多くの人々の心を動かし、今も動かしているイエス様に感銘を受ける人達がたくさんいる。

教会を批判する人達は多いが、イエス様を悪く言う人はいない。だれもがイエス様の偉大さを認めている。ところで、私達は聖書を知らなかった百人隊長や現代の人々と違って、聖書を知っておりイエス様の十字架の意味が分かっている。さらにそれを信じて恵みを受け、天国の希望を持っている。すなわち彼ら以上に私達には神の御子をほめたたえる材料が豊富にある。だから彼ら以上に御子をほめたたえるよう発破をかけられる。今週は受難週である。十字架の御子をほめたたえよう。