マタイ27:62-28:15、ヨハネ1:5

“キリストの復活は事実だ”  内田耕治師

 

マタイにはイエス様の復活についてイエス様の側の証言だけでなくイエス様に敵対する側の証言も記している。イエス様は以前から受難の死と復活をほのめかしていたが、弟子達や主に従う女性達は主が殺される衝撃的な予告を聞いても受け付けず、また復活の予告も頭に残らなかった。当然、主の死と復活に示された神のご計画を分かっていなかった。

2人のマリアが週の初めの日の早朝、墓に行ったのは遺体に香油を塗りに行くためでまさか主がよみがえるなど思ってもいなかった。彼女らは地震、御使いを見て、御使いの言うことを聞き、復活した主に出会ってやっと信じた。また御使いの「前から言っておられた通り、よみがえられた」によってスッカリ忘れていた復活の予告を思い出し、主の死と復活という神のご計画を考え出した。

一方、祭司長、パリサイ人など敵対する側は信じていないが、不思議に「わたしは三日後によみがえる」を覚えていて、もし弟子達が遺体を盗み「主が死人の中からよみがえった」とデマを流し民衆を惑わしたらもっと大変なことになると恐れていた。それで三日目まで墓に番兵をつけるようピラトにお願いに出かけた。しかも備え日の翌日つまり安息日に行ったことは彼らがよほど焦っていたことを物語っている。

ピラトは了解して番兵を遣わした。安息日が終わり週の初めの日の早朝、番をしていた兵士達は2人のマリアと同様、地震と御使いに出会った。彼らは震え上がり死人のようになったが気を取り直して都に戻り、すべてのことを祭司長達に報告した。彼らは長老達と協議をし、「兵士達が眠っている間に弟子達が来てイエスを盗んだ」と嘘を言わせることにした。

弟子達が遺体を盗むことを恐れていた彼らが公然と弟子達が盗んだと言わせたのはある事実を隠蔽するためだった。その事実は主の復活である。しかも「眠っている間に」は兵士達の処刑を招くこともあるから多額のお金を彼らに与え、総督ピラトに話をつけてから言わせた。もし主の復活がなかったら、こんな隠蔽工作はしない。だから彼らの隠蔽工作自体が主の復活の事実を語っている。

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」この場合、光は主の復活であり、闇はそれを否定するための隠蔽工作と言える。けれども闇だけを見ていたら、それが真実となってしまう。祭司長達の隠蔽工作はユダヤ人の間に広まり、その後、それが福音を阻む1つの壁となった。だから闇を侮ることはできない。大事なことは主の復活を信じた者が復活の光を輝かせることだ。

そのために「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます」は打って付けのみことばだ。主の復活を信じる私達は、大したことはできなくてもその信仰によって世の光だ。私達は闇の中にいる人々にその光を輝かせることで光の中に導くことができる。最近イースターの名前を知る人が増えてきたのは良いことだが、その意味を知る人はほとんどいない。だから私達が伝えなくては。