マタイ27:32-44、エペソ2:8
“あなたを救うキリストの十字架”  内田耕治師

イエス様が十字架にかけられる前に2回の裁判があった。祭司長も律法学者も長老も群衆もピラトも不正な裁きをしたが、それによってキリストは十字架にかけられることになった。徹夜の裁判と鞭打ちで疲れ切ったイエス様は十字架を担げず、クレネ人シモンが代わりに担いだ。

イエス様は苦しみを多少緩和する苦味を混ぜたぶどう酒を拒否し、くじ引きする兵士達に衣を奪われ、傷だらけの裸で十字架にかけられた。もし2000年前の現場にいて見たら非常に残虐な光景だが、聖書はそれを感じさせない書き方をし、またそばにいた母マリアやその他の女性達は泣き叫んだに違いないが、聖書はそれを一切描かず、十字架のみわざだけを静かに淡々と描いている。

それは、イエス様を悲劇のヒーローではなく罪を取り除く神の子羊とし、泣き叫ぶ女性達もイエス様を痛めつけて殺す人達も救うことができる神のご計画に読む人々が目を留めるためである。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに私たちは癒された」

また静かに淡々と主の十字架が進行する中で救いの道はだれにも知られず開かれようとしていた。
それは十字架のイエス様を嘲った人達の言葉を見れば分かる。「神殿を壊して三日で建てる人よ」神殿はイエス様の体を表すたとえ、主の死と復活の預言なのに彼らは何も分かっていなかった。

「十字架から降りて来い」十字架は救いの道を開くみわざなのに、そのみわざを“止めてしまえ”と嘲った彼らは何も分かっていなかった。「他人を救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ」ローマを追い出し国を再興する王をメシアと考えた彼らは十字架にかかったイエスが救い主であるはずがないと嘲ったが、彼らは何も分かっていなかった。

「神のお気に入りなら今、救い出してもらえ“わたしは神の子だ”と言っているのだから」自分の御子を十字架にかけるほど人間を愛する神の愛を、嘲る彼らはまったく分かっていなかった。以上にように、だれもイエス様の十字架が分からない中で静かに神のご計画は進行し、救いの道は開かれようとしていた。ところで、現在もだれも分からない中で静かに救いのみわざが起こっている。

だれでもキリストの十字架を知っているが、その意味を知る人は少ない。現代人にとって「十字架から降りて来い」は立ち上がって悪と戦うヒーローを求める願望を表している。その願望の背後には、何かしなければ満足しない性質があり、それを満たそうとして私達は何らかの行動に出たがる。けれども、その願望を満たそうとして神の恵みから遠ざかることがある。なぜなら、

救いは自分で獲得したものではなく100%神の恵みだからだ。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それは―――神の賜物です」だから救いのためにはその性質を横に置き、とにかく神の恵みを求めなくてはならない。そしてその恵みは、人々の嘲りの中でキリストが最後まで十字架に留まったことによる。あなたを救うのはキリストの十字架なのである。