1コリント15:12-23
“キリストの復活は召された人々の復活の先駆け” 内田耕治師
もし私達が死んだ誰かが生き返ったと言ったら“気は確かか?”と言われてしまうが、私達は大真面目にイエス様が死からよみがえられたことを信じている。心の中で信じるだけでなく公に主の復活を宣べ伝え、さらに人々に主の復活を信じるように勧めている。
「眠った者の初穂」復活の主は私達が世の終わりに復活し天国に入るための先駆けである。私達は死んだままではなく復活の体が与えられて天国に入る。「次にその来臨のときにキリストに属している人達」主が再び来られるときに主を信じる者達がよみがえる。私達が天国に入ることはイエス様の復活にかかっている。復活によって救いの道は完成した。
けれどもコリント教会には「死者の復活はない」と言う人達がいた。もし死者の復活がないならキリストの復活もない。もしキリストの復活がないなら、私達も世の終わりに復活せず、天国に行けない。もしキリストが死んだことだけを宣べ伝えているなら、信じても救われない信仰を宣べ伝えることになり、それは空しく、そうする者は哀れな者である。だからそうならないためにキリストの死だけでなく復活をキチンと宣べ伝える必要がある。
4つの福音書は、イエス様の生涯を、復活を頂上として山登りのように描いている。誕生は麓(ふもと)、バプテスマや宣教は中腹、十字架は頂上の一歩手前、復活まで来ると、ちょうど山の頂上に着いて目の前に展望が開けるように神のご計画が開かれる。私達は頂上の素晴らしい展望を他の人達に語りたくなるが、それと同じように復活から見える素晴らしい神のご計画を語りたくなることを意図して福音書は書かれている。
イースターはキリストの復活を宣べ伝える良い機会である。毎年3月下旬から4月中旬の間を移動するのでクリスマスほど意識は上がらず、あまり一般化しないが、それがかえって世俗化を防いでいるかもしれない。でも大事なことは主の復活をキチンと語ることだ。卵探しは楽しいイベントだが、なぜ卵なのか?卵が復活のいのちを表すことを語る必要がある。
また普段から福音を語るときに主の復活をキチンと語ることが大切だ。福音と言えば、その中心は十字架だから是非それを強調して語る必要があるが、私達は十字架ばかりを語って復活が陰に隠れたような語り方をしてしまうことがある。私達自身は十字架の中に復活を含めて語っているつもりでも、聞く側には復活があまり伝わっていない。
私見ではあるが、死者の復活を信じない人達がいたコリント教会の問題はもしかしたら復活が十字架の陰に隠れたような福音の語り方を続けてきたことが原因かもしれない。でも、そうであってもなくても初代の使徒達は「イエス様はよみがえられた」と主の復活を力強く語っていた。イエスキリストは私達の罪のために十字架にかけられ死んで3日目に“よみがえられた”ことを臆さずに宣べ伝えていこう。