エレミヤ39章、1コリント6:20
“陥落して得たいのちの戦勝品” 内田耕治師
「人の心には多くの思いがある。しかし主の計画こそが実現する」だれもがその通りと言う真理だが、現実的にはそう簡単ではなく、いつまでも自分の思いに拘り、現実に示された主のご計画をなかなか受け入れないし、受け入れるのに高い代価を払うことがあるが、イスラエル人はそうだった。当時、バビロン帝国が台頭する中でイスラエル人の国もその属国になり、何度にも渡っておもだった人々が捕囚の民としてバビロンに強制的に連れて行かれた。
神の民を自認する誇り高いイスラエル人はバビロンに反発し特に偽預言者達はバビロンからの独立を主張したが、エレミヤは属国になったことを主のご計画と受け止め、捕囚になるなら積極的になりバビロンの社会に貢献することがイスラエル人の将来を開くと教えた。しかし人々は耳障りのいい偽預言者達の主張のほうを好んでゼデキヤ王を動かし、バビロンに対して反旗を翻した。するとバビロン軍がやって来て周辺の守備隊は打ち破られエルサレムは包囲された。
途中エジプト軍が来てバビロン軍が退いた時もあったが、3年弱の籠城戦の末、エルサレムは陥落し、ゼデキヤ王と兵士達は夜逃げたが捕まり王の息子達は虐殺され、王は両目を潰され連れて行かれた。さらに戦死者や飢えや病で死んだ人々などが多く犠牲者を出してイスラエル人は降伏し、生き残った人々は貧民を除いてバビロンに連れて行かれた。けれども捕囚となった人々に二代目、三代目が生まれ、バビロン社会の一員として貢献し、イスラエル人の将来が開かれた。
一方、戦士や民全体の士気をくじくことを言う奴を死刑にせよという声によってエレミヤは監視の庭の穴に投げ込まれ飢え死になりかけていたが、クシュ人エベデ・メレクが王に救命を嘆願して穴から引き出されたので命拾いをした。エレミヤの言ったことはネブカデネツァル王にも伝わり“目をかけてやれ”と命じたのでエルサレム陥落のとき、彼は監視の庭から解放された。その前に「いのちを戦勝品として受ける」というみことばを受けていたがその通りになった。
以上、イスラエル人は非常に大きな代価を支払うことで”神の民“を誇る思いを捨てエレミヤが語った主のご計画を受け入れた。我が国も70年前、非常に多くの死者を出して敗戦という代価を支払って平和国家という主のご計画を受け入れた経験があるのでよく分かるのではないか。ところで、人間の救いでも代価が必要である。神は人間を救うご計画を持っている。その計画とは人間が神の前に自分の罪を認めてその罪のために死んでよみがえったキリストを信じれば救われることだ。
その計画通りに人々が救われるためには、私達がみことばによってその計画を宣べ伝えることが必要だから私達は諦めないでみことばを伝え続けなくてはならない。その労苦を救いに必要な代価と考えたくなる。確かにその労苦は必要だけれども、その前に神の御子キリストがそのいのちという非常に尊い代価を支払って下さったことを心に留めるべきである。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」神の御子がそのいのちを捨てて下さったからこそ神のご計画は成就し救いの道は開かれた。それがなければ救いの道はない。御子のいのちを覚えながらみことばを伝えよう。