エレミヤ40:1-6、へブル11:24―26
“民とともに歩むエレミヤ” 内田耕治師
エレミヤはイスラエル人の悪を厳しく問い、神のさばきを語った。南ユダ王国はバビロン帝国の属国になっていたが、悪を行いながら自分達は神に選ばれた民だと誇るイスラエル人を、神はバビロン帝国を用いてさばき、エルサレムは廃墟となると警告した。またバビロン軍が攻めて来たとき、戦うなら剣か飢饉か疫病で死ぬが、降伏すれば生きることができると語った。
またバビロン帝国はイスラエル人を捕囚の民として連れて行くが、恐れないでむしろ積極的に捕囚の民になり、数を増やし、バビロンの町の平安のために祈れ、そうすれば将来が開けると教えていた。それらはバビロンにとって都合のいい教えであり、ネブカデネツァル王の耳にも入ってエルサレムが陥落した時にはエレミヤを保護せよと命じていた。
エルサレムが陥落してエレミヤは監視の庭からラマに移され、バビロンに行くもOK,エルサレムに留まるもOKとなった。彼はどちらにするか迷って判断を下せなかったが、親衛隊の長ネブザルアダンは高齢のエレミヤをエルサレムに留まらせた。そのことに神のご計画があった。37章で3年弱の籠城戦中、エジプト軍がやって来てバビロン軍が退却して一時的に平和になり、エレミヤが所用でベニヤミンの地に出かけたとき「バビロンの地に落ち延びるのだろう」と言われて彼は捕らえられ、牢に閉じ込められ殺されかける目に遭った。人々は彼をバビロンの回し者と見ていたからだ。
だからもし陥落後、彼がバビロンに行き、ネブカデネツァル王から栄誉を受けたら名実共にバビロンの回し者となってしまう。けれども、エルサレムに戻ったことで彼はバビロンの回し者の誹りを受けなくて済んだ。彼はだれに対しても純粋にみことばを語る預言者であり、もし神の計画が捕囚の民にみことばを語ることなら進んで従ったに違いない。けれども、もし彼が回し者だと決まってしまうと、イスラエル人は彼からみことばを聞かなくなる。それは神にとって大きな損失だ。だから神はネブザルアダンを用いて彼をエルサレムに留めて、彼は民とともに歩む預言者となれた。
このような彼の歩みは、モーセと通じるところがある。イスラエル人の男の子が生まれたら殺せと王が命じたエジプトでモーセは生まれたが、神の不思議な導きで王女の息子になり、王宮で何不自由なく育ち、エジプトの学問を学んで立派に育った。けれども、モーセは王宮に留まることを良しとせず、ある事件をきっかけに王室から出て、奴隷として虐げられていたイスラエル人を、エジプトから解放して約束の地に導く使命が与えられた。それは「キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えた」からである
私達もエレミヤやモーセのような立場に置かれることがある。私達も何らかの使命が神から与えられ、その使命を成し遂げようとしている。しかしこの世の富や栄誉や特権がその使命を妨げることがある。政治家や御用学者や宗教者など本来の使命を果たすことができなかった例は山ほどある。だからこそ、聖書は神の民とともに苦しむことを選び取ったモーセやエレミヤの歩みを教えている。私達もエジプトの宝にまさる富(天国)を希望として神から与えられた使命に生きるのである。