1コリント15:20-28
“万物はキリストの足の下に” 内田耕治師
キリストを通して救われた人々とその結末を描いている。アダムとエバは初め神とともに歩んでいたが、サタンに唆されて善悪の知識の木から食べてエデンの園から追放され神から離れて罪ある者となった。さらに最初の人間の罪はその後の人類に波及し、人間はだれでも神の前に罪ある者として生まれて来る。「アダムにあってすべての人が死んでいる」人はだれでも体や心は生きているが罪のゆえに霊的に死んでいる。
そのまま行くと死後に神のさばきを受けて滅びてしまう。けれども、神はそんな人類を哀れんで約2000年前、御子キリストを遣わし、新約時代が始まった。だれでも自分の罪を認めてキリストを信じたら罪が赦され、神に立ち返り「キリストにあって生かされる」今日までキリストを通してたくさんの人々が神に立ち返った。新約時代はこれからも続くが、永久に続くのではない。
やがてキリストが再び来られることによって新約時代は終わる。その時にはキリストを通して神に立ち返った人々は復活の体が与えられて御国に入り、天国が完成します。そのとき、死は滅ぼされてよみがえった人々は永遠のいのちが与えられる。以上が私達が目指す目標だ。ところで、人々がキリストを通して神に立ち返ることは、見方を変えると失われた神の権威を回復することだ。
創世記2、3章の善悪の知識の木は、人間が神のみこころを無視して自分の思いや欲望のままに歩むことを表す。それは人間に対する神の権威が失われたことだ。その結果、人間の社会では欲望を追求する者同士がぶつかり合い、争いや戦いが頻繁に起こり、平和が失われ、互いの愛が薄れ、社会や環境を破壊する世界になった。人間の罪のゆえに万物は神のみこころ通りには存在していない。
だから神は失われた権威を取り戻して万物における神の権威を再び確立するために、御子をキリストとして世に遣わした。それはまず私達がキリストを信じて救われ、キリストの支配下に入るためだ。またキリストは私達だけではなく万物がその足の下に置かれるために働き続けている。「キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威や権力を滅ぼし」「最後の敵である死を滅ぼす」のである。
古代の神格化した王政は滅んだ。中世の封建制は滅んだ。資本主義も最近、台頭してきた権威主義も、民主主義も滅ぶであろう。万物がキリストの足の下に置かれるようになると、キリストは自分の足の下に万物を留めることはせず、万物を父なる神にお渡しになる。神の権威が再び確立するためである。さらに万物を父なる神に従わせると御子自身も父なる神に従うようになる。
キリストはもともとは神の御子だから王としての役目を終えたら御子の立場に戻り、永遠に神とともにいるようになる。それは「神がすべてにおいてすべてとなられるため」である。それはヨハネ10章の「わたしと父とは1つです」の成就でもある。この箇所に聖霊は出てこないが、御父と御子は1つであるという三位一体の神の1つの性格が現れている。私達を罪から救い天国に入れてくださり万物を従わせる御父、御子、御霊の神を崇めよう。