マタイ15:29-39、ヨハネ15:5

“イスラエルの神はすばらしい”  内田耕治師

 

ガリラヤ湖に近い山に群衆がいろんな障害者を連れてきてイエス様に癒しを願い、イエス様は3日間かけて1人1人癒した。その後、彼らが帰るとき、空腹のままで帰らせたら途中で動けなくなることを心配して7つのパンと少しの魚で食べさせた。男だけで4000人いた。15章には5000人の給食もある。それぞれ性格が違う。5000人の給食の「パンを裂いて」は聖餐式を予表する。しかし、4000人の給食にはその言葉がなく、代わりに「―――空腹のまま帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから」と人々のお腹をイエス様が心配したことを強調して描いている。

4000人の給食はどんな人達か?ガリラヤは北のツロやシドンと昔から行き来があったのでイスラエル人だけでなく異邦人の可能性がある。彼らは癒しを見て驚き「イスラエルの神をあがめた」と言った。これは異邦人がイスラエル人が信じる神を言う言い方だ。だから彼らは異邦人である。とすると、同じ15章の前の箇所とのつながりが鮮明に見えてくる。それはイエス様がツロやシドンの地方に行ったときのことだ。あるカナン人の女はイエス様が来たことを耳にして悪霊につかれた娘の癒しを求めた。イエス様は彼女を無視したり冷たくあしらったりしたが、彼女がしつこく食い下がったのでイエス様は根負けして娘を癒してあげた。

このことがすぐに口コミで広がったので、たくさんの異邦人がイエス様のもとに障害者達を連れて来たのである。これまでイエス様はイスラエル人のことだけを考えるために異邦人への思いを押し殺していたが、このことが転換点となり、異邦人への思いが溢れ出て来て、3日もかけてたくさんの人達を癒し、さらに帰るときには“空腹のままはかわいそう”と食事をふるまった。これら一連の出来事の意義は何か?イエス様がしたことを弟子達がどう思ったかを考えたらその意義が分かる。

福音書や使徒の働きを見ると、選民意識に凝り固まっていた弟子達はイエス様と違って相変わらずイスラエルの家の滅びた羊だけに目を向けていた。だからイエス様がカナン人の娘を癒し、異邦人達が連れて来た人達を癒して食事まで与えたことを見て“どうして?”と疑問に思ったに違いない。けれども、神はイスラエル人だけでなく全人類の神だという普遍的な真理に彼らが目覚めるために多少の違和感がありながら主に従わせた。使徒の働きの前半を見ると、彼らはなかなか変わらなかったことが分かる。けれども、やがて主の導きで変えられた。後半を読めば分かる。では、どうして変わることができたのか?イエス様に従い続けたからである。

私達も同じようなことがある。イエス様を信じて救われた喜びと感謝はあるけれども、主とともに歩む生き方に何か少し違和感がある、それは“隣人を自分と同じように愛せよと言われても、そこまでの愛はない”とか“信仰に熱心な人を見て、自分はそこまで熱心になれない”という思いだ。だが、弟子達のようにそういう思いがありながら主に従い続けることに意義がある。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしに留まり、わたしもその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。」 イエス様はぶどうの木で、弟子達や私達はその枝だからである。愛や熱心さが足りない私達だが、イエス様に留まり続けて大きな実を結んでいきましょう。