マタイ16:1-12

“囚われ人に主は語り、悟りが生まれる”  内田耕治師

 

パリサイ人は五書も預言書も旧約全部を正典と認め、世の終わりの死者の復活、罪のさばき、霊、御使いを信じていた。イエス様や後の教会と同じだ。けれども律法の解釈である言い伝えにも律法と同じ位、権威を持たせ、厳格に守ろうとしたことはイエス様と大いに異なる。一方、サドカイ人は五書だけを正典とし,世の終わりの死者の復活も罪のさばきも霊も御使いも信じない。

両者は普段対立していたが、イエスという共通の敵がいたから一緒にイエス様を試そうと近づいて来た。彼らは天からのしるしを要求したが、イエス様は悪い姦淫の時代はしるしを求めてもヨナのしるしの他には与えられないと言った。ヨナは三日三晩、大魚の腹の中にいたが、人の子は三日三晩地の中にいて3日目によみがえった。ヨナのしるしとはイエス様の復活である。けれども、彼らは自分達の教えとイエスを試そうとする思いに囚われていたので聞いても悟ることができなかった。

次にイエス様は弟子達に「パリサイ人達やサドカイ人達のパン種にくれぐれも用心しなさい」と語ったが、彼らは忘れたパンのことが頭にあり、パン種をパンのことと誤解した。それでイエス様がさらに説明してパン種とはパリサイ人やサドカイ人の教えだと悟った。どうして警戒すべきなのか?わずかなパン種がたくさんの粉を膨らませるように彼らの教えが弟子達の信仰に大きな影響を与えてしまうからである。では、彼らの教えの何を警戒すべきなのか?

まずパリサイ人の形式的で偽善的な律法主義に警戒する必要があった。安息日の問題は良い例だ。イエス様は安息日に片手の萎えた人を癒し、「もし安息日でも羊が穴に落ちたら、羊をつかんで引き上げるはずだ。人間は羊よりも価値がある」と血の通った律法の適用という革新的な教えを主張した。けれども当時パリサイ人の教えが支配的で多くの人々が盲目的にそれに従っていたので弟子達は影響を受ける可能性があった。だから用心する必要があった。今の私達も神の恵みを忘れると律法主義に陥る可能性がある。だから私達もパリサイ人の教えに用心する必要がある。

サドカイ人の復活否定の教えに警戒する必要があった。イエス様は生前から死者の復活を宣べ伝え、ご自身が十字架で死んで復活し、弟子達はイエス様の復活を宣べ伝えた。イエス様が復活したからこそ福音がありキリスト教がある。けれども、死者の復活を否定する人達もいたので警戒しながら主の復活を証しする静かな戦いがあった。それは現代も同じである。また現代は信仰のない人達が聖書やキリスト教について書いた本をどんどん出す。その中には私達が大いに違和感を覚えるものがあるので用心する必要がある。祭司が主体のサドカイ人は貴族やお金持ちに影響力があり世俗的だった。たとえ貧しくても主に従い通す弟子達の生き方とは相容れなかったから彼らの教えに用心する必要があった。現代は拝金主義と快楽追求の世俗的な社会だ。その風潮にどっぷり浸かって囚われてしまうとキリスト者として生活することを妨げられるだけでなく、普通の生活さえ危うくなる。だから私達もサドカイ人の教えに用心する必要がある。様々な誘惑と弱さを抱える私達だからこそ主のみことばを覚えよう。