マタイ16:13-23、ヨハネ15:16
“理解を超えたキリストの死と復活” 内田耕治師
イエス様が弟子達とともにピリポ・カイザリアに行ったとき、人々はイエス様を過去の人物に結びつけて言うだけで本当は分かっていないことを弟子達に言わせて「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねると、ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。それは画期的な信仰告白だったが、キリストをどう理解しているかの問題があった。だからイエス様は弟子達にはまだ分からない神のご計画を語りだした。
「あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」とはペテロの上にではなくて岩のような堅い信仰の上に教会を建てることであり、「よみの門もそれに打ち勝つことはできない」とは、岩のような信仰があれば、死後の世界など怖くないことだ。現代の私達はこれら教えがよく分かるが、まだ教会が存在せず、教会ではなくイスラエルの国の再興を求めていた弟子達が、この教えを聞いて理解するのは無理な話だった。
「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」 この鍵とは人を天国に導く福音を語ることができる弟子達や私達のことだ。現代の私達はこの教えがよく分かって人々に福音を伝えようとするが、国の再興を最優先課題とした弟子達には分からないことだ。天国の鍵という言葉は記憶に残ったかもしれないが、天国の鍵よりも国を再興する鍵を聞きたいと願ったのではないか。
彼らはさらに全く理解を超えたことを聞かされた。イエス様の死と復活の予告である。現代の私達はイエス様の死と復活が、私達の救いや教会を建て上げるためにどうしても必要なことを知っているし信じているが、当時の弟子達はまったく理解できないし、受け入れることができなかったからペテロは「主よ、とんでもないことです」と否定しにかかった。それに対してイエス様は「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と厳しい言葉でペテロを戒めた。
普通、ここまでお互いの目指す所が違うのが表面化したら袂を分かつものだが、弟子達はそれからもイエス様に従い続けてやがてイエス様の十字架の死と復活を目撃し、主の復活の証人として命がけで福音を宣べ伝え、教会を建て上げるようになった。どうしてか?まず彼らはイエス様が理解を超えたことを語っても聞く耳を持ち続けたからである。では、なぜ聞く耳を持ち続けることができたのか?それは彼らが主に選ばれた者だったからだ。
「わたしについて来なさい」「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしが選び、任命しました」 彼ら自身の目標があり、それを達成するのに都合がいいからイエス様を選んだのではない。もしそうなら袂を分かったはずだ。初め国の再興という神のご計画ではないことを彼らが熱心に求めていたことを主は許していた。けれども神の導きによって彼らは変えられた。神のご計画のために主に選ばれていたからである。私達も自分の計画を持つことが許されている。自分の励みのために計画を持つのは良いことだが、私達も神のご計画のために主に選ばれたことを忘れてはならない。