使徒2:1-13

“ペンテコステの多言語礼拝”  内田耕治師

 

イスラエル人は全人類を祝福するために神に選ばれた。キリストは彼らから出て来た。だが、彼らは諸国や諸民族から脅かされる中で自分達を守り抜くことに精一杯で、他を祝福することを忘れて自分達が選ばれたことだけを重視し、誇り高く、排他的で閉鎖的な民となった。イエス様の本心ではないが、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外の所には遣わされていません」にその傾向が現れている。ユダヤ人と異邦人の間の溝は深く、ユダヤ人は異邦人と付き合おうとせず、異邦人と交われば汚れるとまで思っていた。

当然、ユダヤ人である弟子達は異邦人に宣教する考えはなく、彼らの関心は宣教よりもむしろイスラエルの国を再興することだった。だから「あらゆる国の人々を弟子とせよ」という宣教命令を与えられても弟子達はその命令通りには動きそうになかった。けれども、神はそんな彼らを用いて五旬節の日から神のみわざを始めた。「炎のような舌が分かれて現れ、1人1人の上にとどまった」 舌は言葉を表す。炎のような舌が1人1人の上にとは,1人1人がそれぞれ、いろんな国の言葉を話し出したことである。

「エルサレムには敬虔なユダヤ人たちがあらゆる国々から来て住んでいた」 外国に住むユダヤ人(ディアスポラ)が祭りのために来ていた。昔からディアスポラになる人達がいてその子孫がたくさんいた。彼らは祖国の言葉は話せなくて生まれ育った国の言葉を話した。彼らはユダヤを中心にして広範囲な地域から来ていた。わざわざ遠くから巡礼に来た彼らはユダヤ教の戒律を形式的に守るだけでなく真の神を信じる敬虔な人達だった。彼らは物音がするのを聞いて集まり、いろんな言葉の中に自分が国で話す言葉があることに気づいた。しかも話していたのが、諸国の言葉など知っているはずがないガリラヤ人だと分かって大いに驚いた。

「あの人達が、私達のことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」一部に「新しいぶどう酒に酔っている」と嘲る人達もいたが、ほとんどは様々な言葉が語る内容が神への賛美だと分かり、それがその後の宣教のキッカケになり、さらに彼らが救われたことは異邦人宣教の突破口を開いた。「改宗者」はディアスポラの生き方を見て関心を持ってユダヤ教に改宗した異邦人だが、エルサレムでキリストを信じた人々が国に帰れば、ユダヤ教の場合と同様、その生き方を見て関心を持ち、キリストを信じる異邦人が現れる。それが五旬節の聖霊降臨に伴う神のご計画だった。

その計画はその後、実現した。エルサレムにはローマからも来ていたが、キリストを信じた人達がローマに戻って集会を始め、それがローマ教会の起源と言われる。余談だが、キプロス生まれのバルナバやタルソ生まれのパウロなどディアスポラで大いに用いられた。異邦人に福音を広げるために異邦人とユダヤ人の間にいたディアスポラに福音を伝えた神のみわざは大いに功を奏し、豊かな実を結んだのである。聖霊を注いで多言語礼拝を起こし、宣教のキッカケを作り、どうにもならない弟子達を造り変え、宣教に動員した偉大な神のみわざを見ると、神をほめたたえるほかはない。そして今の私達も同じ神を信じることを忘れてはならない。難しい状況があっても神に期待しよう。