マタイ16:21-28

“いのちに替えて全世界を欲しがる愚か者”  内田耕治師

 

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」イエス様はご自身が十字架を負うだけでなく弟子達も自分の十字架を負う必要があると語った。「自分の」とは神がそれぞれに与えた固有の重荷である。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです」「いのち」には様々な意味がある。まず「自分のいのちを救おうと思う者」とは神が与えた十字架を恐れて逃げることだ。自分は上手く逃げることができたと思っても結局「いのちを失う」神の祝福を失うことになる。

反対に神が与えた自分の十字架を負うことはイエス様に従うことだ。逃げないで自分の十字架を負う者は自分のいのちを見出し神の祝福を受ける。だから自分の十字架を負いなさいと勧めている。神のみこころに従って自分の十字架を負った最大の例がイエス様である。イエス様は私達の救い主であるとともに自分の十字架を負うことを教える模範である。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」全世界を手に入れたがる独裁者を例にして考えよう。国の指導者が、間違った判断をしたら困るから指導者は独断に陥らないように批判や反対でも人の意見に忍耐して耳を傾けなければならない。それが彼の十字架である。けれども、独裁に陥ると、その十字架を負わなくなり批判や反対を排除し、やりたい放題をする。

指導者はたとえ自分に都合が悪くても真実を語る義務がある。それが彼の十字架だが、独裁に陥ると、簡単にその十字架を放棄して嘘を語り出す。侵略を解放と言い出すなど彼は真実を覆い隠し、嘘で塗り固める。また指導者は軍隊を動かす権力があり、彼の命令1つで戦いが起こり、多くの命が失われる。だからこそ命の尊さを覚えて全力で戦いを避ける努力をすることが彼の十字架だが、独裁に陥ると、その努力を放棄して戦争を行い。さらに勝つためならどんな非道なことでも行う。

独裁者が自分の十字架をことごとく放棄してやりたい放題をして全世界を手に入れた後、残るものとは、あきれるほどの破壊と多くの死者と、悲しみと憎しみだけだ。しかも、その憎しみはいつまでも癒されない不の遺産となる。まさに「全世界を手に入れて何の益があるでしょうか」である。独裁者は、悪知恵に長けていても愚か者だ。そんな者が出ないように私達は気を付けなければならない。そのために政治の在り方に目を光らせる必要がある。

ところで、私達は独裁者ほど酷くはないが、忍耐して人の意見に耳を傾けることをしないとか、ついつい嘘を語り真実を語らないとか、その生活や人生の中で自分の十字架を放棄することがある。独裁者は他人事ではなく半面教師である。「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれの行いに応じて報います」私達がこの世で自分の十字架を負ったかどうかは、救いとは関係ないが主イエスが再臨するときにそれ相応の報いがある。この世で成功することはその報いと関係ない。それは私達が自分の十字架を負うことにかかっている。