2ペテロ2:1-9
“正しい心を痛める恵み” 内田耕治師
キリストを信じて救われたとは、行いではなく信仰によって神の前に義と認められたこと。義とは正しさ。その正しさには一般的な正しさとは異なる部分がある。神が天地を造られた。キリストは神であり救い主である。キリストが十字架にかかることで救いの道が開かれた。以上は私達には真理だが、未信者には分からない。私達はそういう真理を“そうでなければならないもの”として大切にしている。けれども、異端はそういう真理を否定する。
異端は主を否定し滅びを招く。たとえば、エホバの証人はキリストの神性を否定し、統一協会 (現:世界平和統一家庭連合) はキリストの十字架を失敗で再臨のメシヤの来臨で救いが完成すると言う。これらの教えを信じる人々は滅びてしまう。気の毒なことだ。また統一協会は、正体を隠した勧誘活動、恐怖心を掻き立てる洗脳や献金、霊感商法、合同結婚式など、これまで問題があり批判されながら、政治家とつながりお墨付きを得ることによって彼らの活動は続いて多くの人達を苦しめてきた。
私は大学生のとき、統一協会の洗脳キャンプに参加したが、彼らの反共主義に変なものを感じて入信しなかった。けれども、一緒に参加した4人のうち1人が入信した。母親は心配して彼を脱会させることをお願いに来たことを耳にした。だいぶ後で、神学校で学んでいたとき、母親が彼を脱会させることをお願いに来たことを再び耳にした。私は救いの道を歩んで、彼は滅びの道を依然として歩んでいる。その大きな違いに愕然とした。私は異端の存在に問題意識を持つようになった。
神は罪や悪に対して即座にさばきを付けることをしないで心を痛めながら忍耐して見守っている。その良い例がノアの洪水だ。当時の世界に罪や悪が山のように積み上がっていたが、神はすぐにはさばかず、心を痛めながら見守っていた。そんな中でノアは神の痛みを自分の痛みとして大きな箱舟を造った。それだけでなく「義を宣べ伝える」ことでその痛みをことばにも表した。ソドムに住んだロトも神の痛みを自分の痛みとした。ロトはノアのようには義を宣べ伝えることをしなかったが、不敬虔で不道徳な人々の中で細々と孤立して暮らしながら、その正しい心を痛めていた。
私達みんなが、異端からの脱会活動をする必要はないが、大昔のノアやロトと同じように神の痛みを自分の痛みとするべきではないか。現実的に異端と関りがあった人と全くない人では温度差があるが、全くない人は想像力を働かせてほしい。親しい友が“キリストは神ではない”と言い出したら、あなたはどう思うか?親しい友が“キリストの十字架は失敗だ”と言い出したら、どう思うか?心に痛みを覚えるのではないか。異端からの脱会活動をする人達は、使命があり、そのための訓練を受けて活動し、その活動は多くの時間と労力を必要とする。だれでもできることではない。けれども、神の痛みを自分の痛みとすることはだれでもできることだ。神は罪ある者を救うためにご自身の愛するひとり子をささげられた。そこまでなさったことを否定された神の心の痛みを大きい。けれども、それでも神は否定する人達へ救いの御手を差し伸べている。脱会活動はできなくていいから、神の痛みを覚えよう。