創世記1:26-2:19

“戦う欲望と平和をつくる心”  内田耕治師

 

神は人間に生き物を支配する役割が与えた。支配は悪いことではないが、やり方によって良くも悪くもなる。人間は大昔から現代に至るまで適切でない支配を行ってきた。でも、聖書は適切な支配を教えている。「生き物を支配せよ」とは生き物の上に立つ支配者になることではない。

創世記1章によると、人間も動物も初め草食だった。でも、よく読むと人間の食べる植物と動物が食べる植物は違う。それは食べ物のことで人間と動物が争うことを防ぐための神の配慮だ。神は両者が平和的に共存する世界を造ろうとした。そのためには動物を仲間だと思うことが必要だ。

「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」ちょっと見ただけでは人間だけに与えられたみことばに見えるが、洪水ですべての人間や動物が死んだ7章を見ると、人間だけでなく動物も大地のちりで造られ、いのちの息を吹き込まれた存在だと分かる。人間だけが神のかたちに似せて造られたが、神に造られた生き物という点では動物も人間も同じ仲間だ。人間は同じ仲間である動物を適切に支配する役割が与えられた。

そのためにはあることが必要だ。それは支配する相手を知ることだ。そのために神は人間に生き物の名前をつける仕事を与えた。神は人に生き物の名前をつけさせることで生き物をよく知るように導かれた。では、何のためか?初めの人間は草食だから動物を殺して食べることはない。だから知るとは共存して生きるために何をどうすればよいか知るためだ。神の教えた適切な支配とは力で押さえつけることではなく、それぞれの動物を良く知ったうえで適切に世話をして守り、共存することだ。それはちょうど羊や牛などの家畜の世話をする牧者のような仕事だ。エゼキエル34章を参照。

エゼキエル34章は、羊たちを養う、羊たちを憩わせる、失われた羊を捜す、追いやられた者を連れ戻す、傷ついたものを介抱する、病気のものを力づけるなど理想的な牧者の姿を描く。それとともに、34章は羊を屠るが、羊を養わない、弱った羊を強めない、病気のものを癒さない、傷ついたものを介抱しない、追いやられた者を連れ戻さない、失われたものを捜さない、力づくで支配するなど悪い牧者の姿も描く。しかも、良い牧者よりも悪い牧者のほうが多めだ。現代に当てはめて読むと、まさに今の世界を的確に描いている。悪い牧者によって弱い立場の人たちが苦しめられ、慰められることなく捨てられ、命を落とす。飢えで苦しむ人々、散らされる人々など平和が失われる。

それは力で支配する権力者達が、戦争を起こして弱い国の領土を奪い、支配を広げるこの世界を表す。けれども、私達はそういう世界で、まずキリストに期待する。新約の光で読むと、良い牧者とはキリストを表すからだ。またキリストに期待するだけでなく、私達は小さな良い牧者として置かれた所で周囲の人達の霊的な、あるいはその他の世話をする者として存在する。罪や弱さを抱える私達に何ができるのか?思うかもしれないが、主は私達を尊く用いて下さる。創世記1,2章の理想的牧者の姿は私達が目指す姿だ。平和運動、核廃絶運動など平和のために働くのは尊いことだが、私達が良い牧者として小さな働きをすることも平和が崩れかかっている世界を建て直す尊い働きだ。