マタイ17:1-13、ピリピ2:6-8

“モーセとエリヤと神が語る御子キリスト”  内田耕治師

 

イエス様は神のご計画に従って十字架を目指していたが、弟子達はそれがまったく分からず当時のユダヤ人のメシヤ像や神観を持ちながらイエス様に従っていた。ピリポカイザリアでイエス様がほんの少し十字架のことを言っただけで激しく反発したように、本当のイエス様を知らないままで行動を共にし、そのままで行けば、いずれ関係は破綻してしまうような状態だった。だから弟子達に本当のイエス様を知らせる必要があったが、そのために山上の変貌は起こった。

まずモーセとエリヤの幻は何を表すのか?モーセはイスラエル人をエジプトの奴隷状態から解放し、40年間導いた指導者で五書の著者。五書には十戒を始めとして律法がある。五書イコール律法と言われる。だからモーセは律法を象徴する存在だ。一方、エリヤは北イスラエル王国でアハブ王が国民に強制した偶像礼拝と戦い、最後に戦車に乗り、竜巻によって天に上り、マラキ書に再び来ると書かれた預言者を代表する存在である。また旧約聖書は中身を構成する律法と預言者でよく表された。だからイエス様が律法を象徴するモーセと預言者を代表するエリヤと語り合った幻は、イエス様が律法と預言者つまり旧約聖書が語るメシヤであることを表す。そのことはアブラハムへの祝福の約束、過越の子羊、イザヤ53章の受難の預言、詩篇16篇の復活の預言を見れば明らかである。

次に神は旧約聖書だけでなくご自身のことばで直接、イエス様がだれであるかを語った。旧約聖書で神は唯一で目に見えないお方だから目に見える偶像は神ではない。目に見えるものを神々とする偶像礼拝は最大の罪である。その後のユダヤ人達も偶像を否定して神は目に見えない唯一のお方だという神観を頑なに守って来た。とすると、ユダヤ人である弟子達が、見た目は人であるイエス様を神の子つまり神として信じたのは革新的。どうしてそうできたのか?そのカギが「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」にある。ずいぶん後で書かれた第二ペテロ1章にも同じことばがそのまま書いてあるように、弟子達の心に深く残り、神には御子がいて、神は御子をこの世に送り、御子は神の立場を捨てて自分達と同じ人間になったという神観の大きな変革をもたらした。

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、――」

それからイエス様ご自身が、そのうちに人類の罪を負って十字架にかかり、死んで死者の中からよみがえることをほのめかした。何も分からない弟子達がマラキ書の預言に従って、まずエリヤがやって来ると言うと、イエス様はエリヤはすでに来たが人々はエリヤに対して好き勝手な酷いことをしたと言った。このエリヤとは義のために殉教したバプテスマのヨハネのことだが、イエス様はヨハネのことを言いながら「同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります」と自分のことをほのめかした。少し前に受難と死と復活をもろに語ったら大変な反発を受けたが、この時は当たり障りはなかった。でも、いずれにせよイエス様は十字架の道を歩んでいた。イエス様の十字架は私達を罪から救う神のご計画だからだ。日本で他の信仰と言えば、私達の欲望の延長線上にいる神々を拝む。しかし、イエスキリストは私達の欲望の延長線上にいる神ではない。私達を罪の滅びから救うためにこの世に来られ、私達の罪の身代わりとして十字架にかけられたお方だ。それゆえ、私達はイエス様を救い主として崇める。