マタイ17:14-20
“からし種ほどの信仰” 内田耕治師
https://www.youtube.com/watch?v=wkrnx4pRzX0
私達は信仰が大きい小さい、強い弱い、深い浅い、熱心か熱心でない、敬虔か敬虔でないなど人目につく信仰の姿を気にするが、この箇所は本当の信仰を教える教室だ。生徒は弟子達、先生はイエス様と癲癇(てんかん)の息子を連れて来た父だ。この教室は起こった問題を題材にして教える実物教育だ。イエス様は以前に弟子達を伝道旅行に遣わすとき、病を癒やし、悪霊を追い出す権威を与え、伝道旅行で彼らはその権威を用いて多くの癒しや悪霊追放を行ったが、今回は癒せなかった。どうしてか?
問題は彼らの信仰にあった。その権威は神により頼むことで使えるものだったが、彼らはいつの間にやら自分の力や勢いによって癒しや悪霊追放がなされていると思い込み、神により頼む信仰をなくしていた。だから癲癇の息子を癒すことができなかった。イエス様は「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい」と語った。
これは出来の悪い生徒に対する先生の苛立ちだ。そこまで言わないと分からないほど弟子達は図太かったのかもしれないが、期待したようには成長していない弟子達にイエス様はガッカリした。でも、彼らはイエス様をガッカリさせたことに気づいたようで「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか」と率直にダメな点を聞いて学ぼうとした。するとイエス様は「あなたがたの信仰が薄いからです」と、神により頼むことなく自分の力や勢いで癒そうとした問題を指摘した。
次にからし種は、こんな小さな種から一体、何ができるのか?と思うほどの小さな種だが、私達の信仰は小さくても、私達が信じる神は偉大なお方だ。「この山に“ここからあそこに移れ”と言えば移るようになる。あなたがたにできないことはない」私達に山を動かすなど出来ないが、全能の神にはできる。そう信じれば私達の信仰が大きいか小さいかは関係ない。小さな信仰でいい。それがからし種ほどの信仰だ。
弟子達には、幸いにして息子の癒しを求める父親というからし種ほどの信仰の実例が与えられた。「主よ、私の息子をあわれんでください」には2つの要素がある。1つは自分はまったく無力で、自分では何も出来ないと認めること。もう1つは何でもできる全能の神に助けを求めること。弟子達にとって父親は自分達の失敗をズバリ言って面子を潰す気まずい存在だったかもしれないが、些細なことだ。彼らが謙遜になって必死に求める父親の姿から学ぼうとすれば、からし種ほどの信仰を学べるはずだ。彼らは学んだに違いない。
そして今の私達もイエス様のみことばとこの父親の実例から、からし種ほどの信仰を学ぶことが出来る。信仰が大きいか小さいか、強いか弱いか、深いか浅いか、熱心か熱心でないか、敬虔か敬虔でないかとは、すべて人間の視点から見た尺度だ。けれども、聖書に神の尺度がある。それがからし種ほどの信仰だ。自分は自分を救えない無力な存在であることを認め、その気になれば何でもできる全能の神に助けを求めて行こう。