マタイ17:22-27、2テモテ4:2

“神の子どもたちに罪を負う義務なし”  内田耕治師

https://youtu.be/eXTfBPkPveE

2回目の受難の予告を聞いて弟子達は悲しい思いになった。その後、神殿税を集める人達がペテロの所に来て「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか」と尋ねた。神殿税とは、年1回の贖いの日を初めとして動物のいけにえを屠り、その血を流して罪の赦しを宣言する神殿を維持するための税金で豊かな者も貧しい者も国民全員が同じ2ドラクマを支払う必要があった。ペテロは「納めます」と答えた。

けれども、イエス様はそのことを知っていて彼が神殿税のことを話そうとする前に「地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか。それとも、ほかの人達からですか」と尋ね、「ほかの人達からです」と答えると、主は「ですから子たちにはその義務がないのです」と語った。何が言いたいのか分からない会話だが、主は大切なことを伝えようとしていた。

「子たち」は、主の十字架を信じて罪の赦しを受けて神の子どもとなる者達をたとえ、「その義務がない」とは罪は動物の血ではなくてイエス様の血によって赦されるから罪の赦しを得るために動物のいけにえを献げる必要はないことをたとえている。へブル10章「律法には来るべき良きものの影はあっても、その実物はありません」だから「来るべき良いもの」であるキリストが現れたら動物のいけにえも神殿も必要がなくなる。だから神殿税を支払う必要はないのである。けれども、イエス様はそのすぐ後でペテロに釣りをさせて取れた魚の口にあった銀貨で神殿税を払わせた。

それは矛盾だが、どうしてそうしたのか?まだこの時点では主はまだ十字架にかかっていなかったし、神殿も神殿税もユダヤ人にとって大切なもので余計な争いを避けるためだった。このことから伝道における現実的な適用を考えてみよう。私達は主の十字架以外には救いがないことを確信し、その救いの道を歩み、その道をあらゆる人達に宣べ伝えたいと願っている。でも、現実的にはそう簡単ではないので時と状況に応じて適切なやり方を考えなくてはならない。

世界にはキリスト教の宣教師を受け入れない国が存在する。そんな所には別の肩書で入り、宣教師であることを知られないように用心し忍耐してみことばを宣べ伝えなくてはならない。その忍耐ができなくて強引なやり方をして問題を起こしたキリスト者達がいる。逆のケースもある。“石橋を叩いても渡らない”ように良い関係ができるまで伝道しないし自分がキリスト者であることさえ言わず、最後まで何も言わないでみことばを伝える機会を失うこともある。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」良い時には良い時のやり方、悪い時には悪い時のやり方がある。良い時に悪い時のやり方は合わないし、悪い時に良い時のやり方をしたら最悪だ。十字架による救いを確信して、みことばを宣べ伝える情熱を持つことが大事なのはいつでも同じだが、どんなやり方をするかは自分で判断しなくてはならない。適切に判断する知恵が必要だが、イエス様が神殿税を払う必要がないと教えながら払わせたことは参考になる。主は私達1人1人にその判断を任せている。時と状況をよく見ながら福音を伝えよう。