マタイ18:1-5,1コリント10:31

“天の御国で一番偉いのは子供だ”  内田耕治師

https://youtu.be/7ikfMyCkEYE

17章の最後でイエス様が神殿税を納めることをペテロとだけ話して決め、彼を特別扱いしたことを18章で他の弟子達が僻んで「天の御国では、いったいだれが一番偉いのか」とイエス様を批判した。彼らはペテロに対してライバル意識を燃やし、天の御国をまるで偉い人が普通の人々を支配するこの世のように思っていた。でも、イエス様は釈明して彼らのご機嫌を取ることはせず、その話題が出たことを機会に本来、天の御国とはどんな所であり、そこでは誰が一番偉いのかを語った。

まずイエス様は1人の子供を呼んで立たせ「向きを変えて子どものようにならなければ、決して天の御国に入れません」と語った。「向きを変えて」とはこれまでの道を180度方向転換する悔い改めだ。“これまでの道”とは出世して高い地位に着くこと、つまり自分を高くすることだ。だから“向きを変える”とは自分を高くすることを止めて神を高くすることだ。それは越えなければならないハードルだが、それを越えるために主は「子どものように」になることを勧めた。

「この子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉い」大人は長い時間をかけて築き上げてきた自分があり、自分を低くするのは難しい。けれども、子どもはまだ人生が短いから築き上げて来た自分があまりなく、また大人ほど自分が固まっていないので容易に自分を捨てて低くなることができる。けれども、それは自分の得のために他人の前で低くなることとは違う、自分の得になるかどうかは分からないが、神の栄光を現わすために進んで自分を低くすることである。

すべての人間には生まれながらに自分を高くする性質が根強く存在する。ひがんでお粗末な姿をさらけ出した弟子達はその良い例であるが、彼らはその後、少しずつ成長して自分ではなく神を高くする者に変えられた。また神を高くする生き方は、堕落から自分を救う生き方でもある。自分を高くすることばかりを追い求めると、正しさや全体の益よりも自分の益や栄誉ばかりを追い求めて高くなった末に転落することが多いからだ。

自分を低くし神を高くする生き方はまず御子キリストを信じて父なる神を自分の神とすることから始まる。高くする神がいなければ自分を高くするだけになるからだ。また自分を低くして神を高くする模範を持つことが案外、大切だ。「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください」と祈って十字架の道を歩んだイエス様は完璧な模範だが、完璧過ぎて次元が違うかもしれない。私達はそれぞれ自分にふさわしい模範を持てば、それが励みになる。

敬虔なクリスチャンだったバッハの作曲姿勢は模範になる。一般受けする曲を作って彼よりも遥かに有名になった同時代の作曲家と比べると、彼は一般受けを考えず、とにかく神の栄光を現わすために曲を作り、作った曲を神への献げ物としていた。生きている間は賞賛を受けなかったが、死んでから高く評価された。それは自分を低くして神を高くする1つの模範ではないか。「何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」私達は口では神の栄光と言いながら弟子達と同様、自分を高くすることを追い求める者だから主の前に子どものように自分を低くすることを心がけよう。