ダニエル3章、1コリント1:27―28
“金の像を拝ませないまことの神” 内田耕治師
3章は、70人訳によるとネブカドネツァル王の治世の18年、バビロン軍がエルサレムを陥落させる1年前と考えられる。反抗するユダヤの民を押さえつけ、だれも歯向かうことができないことを諸民族に知らせるためにバビロン帝国の権力を誇示する必要があったかもしれないが、王は巨大な金の像を造り、各地の高官達を集めて一斉に金の像を拝ませた。しかも拝まなければ火の燃える炉に投げ込むと脅した。以前、夢の解き明かしによって神の前にへりくだったのに王はそれに逆行していた。夢では頭だけが金だったのに、全部が金で出来たこの像は王の心にあった“バビロンこそいつまでも続く偉大な国だ”という確信と“自分は偉大なバビロンの偉大な王だ”というプライドを象徴的に表していた。
けれども、神はそんな王を見捨てないで再びへりくだるように導いた。その導きとはシャデラク、メシャク、アベデネゴが金の像を拝まなかったことである。帝国内の諸地域や諸民族や諸言語から来た高官達がたくさんいたので王は3人に気づかず、彼らも王に見つからなくてホッとしたと考えられる。3人は私達と同じ普通の人だと言える。しかしカルデヤ人の告げ口で王は3人は表に出て来て、王は彼らを脅して金の像を拝ませようとした。しかし彼らは「私達が仕える神は、火の燃える炉から私達を救い出すことができます」と話し、さらに「たとえそうでなくても、――あなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません」と語り覚悟を示した。王は激怒し、炉を7倍も熱くさせて、そこに彼らを投げこませた。
王の確信もプライドも高官達が命令通りに金の像を拝むことでかろうじて保たれていたが、王は彼らが脅されたから拝むだけで心から進んで拝むのではないことを知っていた。対称的に3人は脅されても全くたじろぐことなく金の像を拝むことを拒否し、自分達の神だけを神とした。王は命を捨ててでも彼らが従う神とは一体どんなお方か?と思い、その確信もプライドも崩れ出した。さらに王は3人が火の中で死ぬことがなく生きて歩き、声をかけると何の火傷もなく戻って来た偉大な奇跡を見て変えられた。変えられた最大の理由は、奇跡のこともあるが、3人が王の命令に背いてでも命がけで自分達の神だけを神とし、王の偶像礼拝を拒否したことである。王は3人の勇敢な行動によって偶像の神々とは違う偉大な神に気づき、その神の前に素直にへりくだることができた。
いつの時代でも権力者は、国の権力を誇示し、国民の精神を統一するために自分や偶像を国民に拝ませて偶像礼拝の罪を犯し、人々にもその罪を犯させようとする。ローマ帝国の皇帝礼拝、ドイツのヒットラー崇拝、日本の天皇崇拝、最近の権力者は巧妙でメディアを支配し、国民に片寄った情報や思想だけを吹き込む。これらと比べるとネブカドネツァル王は可愛いものだ。神はネブカドネツァルを見捨てなかったように今の巧妙で手強い権力者達も見捨てず、偶像礼拝の罪から離れて神の前にへりくだるように導こうとする。そのために神はかつてシャデラク、メシャク、アベデネゴという普通の人達を用いたように普通の私達を用いる。私達は大変な使命を任されている。“こんな自分に何ができるのか?”と言いたくなるが、神はむしろ小さく弱い私達を用いる「神は強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれる」それは神の栄光だけが現れるためである。