エゼキエル2:1-3:15、ローマ3:21―22

“エゼキエルが食べた甘い巻物”  内田耕治師

 

テル・アビブの捕囚の民の居留地に連れて来られたエゼキエルは、同じように連れて来られた捕囚の民にみことばを語るように召された。彼らは難しい外国語を話す民ではなく同国人であり、捕囚という辛い経験を共有する仲間だ。けれども、彼らはまことの神から離れた罪を認めず、自分達を無理やり連れて来たバビロンを憎み、主がエルサレムに戻してくれると思い込んでいた。彼らは、エゼキエルにとって反抗する国民であり、反逆の家だった。しかし主は、エゼキエルに「人々は反抗的で心が頑なであっても聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ」と命じた。どうしてか? それは「彼らは自分たちのうちに預言者がいることを知る」ためだ。

預言者はみことばを語ることによってその存在が認められる。みことばを語らなければ、その存在がなくなるからだ。聞く気のない人達にみことばを語るのは反発や孤独感を感じながら語ることだから大変だ。だから主は「あなたは彼らや彼らのことばを恐れるな」と言い、さらに反発や孤独感に耐えられるように主は「あなたの額を、彼らの額に合わせて硬くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも硬いダイヤモンドのようにする」と言って励ましました。

次に巻物が出て来る。これはビジュアル的な言葉を用いて表現する黙示文学だ。普通、巻物は表だけに文字が書いてあるが、その巻物には表も裏もギッシリ文字があった。それはエゼキエルが語ることがたくさんあることを表す。「嘆きと、うめきと、悲痛が記されていた」とは神を嘆き悲しませるイスラエル人の罪とそのさばきを表す。「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に告げよ」とはその罪のさばきを語れということだ。けれども、この苦い巻物をエゼキエルが食べると口の中で蜜のように甘くなった。エゼキエル書は最初からイスラエルのさばきばかりが書いてある。しかし、33章でエルサレム陥落の知らせがエゼキエルに届くと、その後、エゼキエルはイスラエルの回復と希望を語るようになる。つまり、苦い巻物が口の中で甘くなるとは、イスラエル人の罪がどんどん明らかにされて裁かれることを経て、彼らは廃墟から回復し、希望を持つという預言である。

ところで今の私達も同じようにある巻物が与えられている。それは聖書だ。聖書にはあの巻物と同じように私達について「嘆きと、うめきと、悲痛」が書かれている。それは、私達の罪と罪に対する神のさばきだ。ローマ3章に「義人はいない。1人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。1人もいない。彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。彼らの唇の下にはまむしの毒がある。彼らの口は、呪いと苦みで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。――――」 この箇所を真面目に読んだら、だれでも嘆きと、うめきと、悲痛を覚えるに違いない。そこだけ読むと聖書は苦い巻物だ。でも、その後で「しかし、今や律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエスキリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です」と書いてある。イエス様の血によって罪の赦しを受け、神の義が与えられ、裁かれることなく、神の国を相続できる。だから聖書は苦い巻物であるだけでなく甘い巻物でもある。だれでも、その苦さを知るならば、その素晴らしい甘さを得ることができる。救われた私達はそれらを知っている。だからエゼキエルのように人々に語ろう。