ルカ22:39-53
「私の願いではなく、神のみこころがなるように」 内田耕治師
平行記事がたくさんあるマタイ、マルコ、ルカは共観福音書と言われる。それぞれの視点で書いているので、それぞれに言いたいことがある。比較するとそれがよく分かる。この箇所はマタイ、マルコではゲッセマネの地名を出して特別な祈りとして描いているが、ルカには地名がなく毎日のお決まりのコースで起こったこととして描いている。マタイ、マルコでは12弟子からペテロ、ヤコブ、ヨハネが選ばれてイエス様の傍にいたが、ルカは3人が選ばれて傍にいたことを書いていない。マタイ、マルコは“3人に一緒にいてもらいたい”というイエス様の気持ちを描いているが、ルカはその気持ちをまったく描いていない。マタイ、マルコでは、イエス様が3回祈り、その間の3人とのやり取りを書いているが、ルカはそのやり取りをサッパリ削除し、必死に祈るイエス様だけに焦点を当てている。「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。」
イエス様の祈りとは「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」である。「この杯」とは十字架だ。イエス様は分かっていながら十字架を非常に恐れ、避けたいと願った。使徒7章で勇敢に殉教したステパノとは大違いだが、ステパノの死とイエス様の死は同じではない。イエス様の死はまさに人類の罪の代価を支払うものだが、ステパノの死はそうではない。人類の罪の代価を支払うことが、どんなに大変なことかイエス様の恐れがそれを表している。そしてイエス様が祈った通りにイエス様の願いではなく、神のみこころが成し遂げられるように物事は動いた。まずイエス様を裏切ったユダが群衆を引き連れてやって来た。時は夜でユダは口づけでだれがイエス様かを示し、イエス様は「あなたは口づけで人の子を裏切るのか」と批判めいたことを言いながら無抵抗のまま逮捕されようとした。次に弟子達は大祭司のしもべの右耳を切り落としたが、イエス様は触って癒された。それはそのしもべを可哀そうに思っただけでなくこれ以上の戦いを避けてスンナリ逮捕されるためだ。
「今はあなたがたの時、暗闇の力です」暗闇とはサタンだ。サタンは普通、神のみわざを妨げ、人間を神から引き離そうとするが、神の前では何の力もないから神を恐れている。だからこの時、神はサタンが働き、暗闇の力が一時的に状況を支配することを許した。だからユダが裏切り、剣や棒を持った人々を連れて来て罪のないイエス様は逮捕された。けれども、そうなることで神のみこころは成し遂げられ私達のために救いの道が開かれた。暗闇の力は私達にとって理解しにくいことだが、理解するために打って付けの例が旧約聖書にある。創世記のヨセフと兄達の物語だ。ヨセフは若い時、兄達と険悪な仲で、不思議な夢を語って兄達の憎しみは頂点に達し、兄達はヨセフを殺そうと思ったがエジプトに売り飛ばした。その時、暗闇の力が支配していた。けれども、その後、神の不思議な導きで彼はエジプトを支配する者となり、飢饉でエジプトに穀物を買いに来た兄達は久しぶりにヨセフに再会した。ヨセフは兄達が分かったが、兄達はヨセフが分からなかった。だが、神の導きによってヨセフは自分のことを明かし、一族をエジプトに移住させて飢饉から救い出した。確かに兄達は昔、酷いことをしたが、イエス様の時と同じように後で良いものをもたらした。私達も暗闇の力に支配され、お先真っ暗でまったく希望がないと思うことがたまにある。だが、そんな中でも目には見えない神のご計画が進んでいるから私達は神に期待することができる。