ルカ22:63―23:5、2コリント5:21

“罪のないキリストを罪とした人々”  内田耕治師

 

イエス様はもともと人類の罪の身代わりとして十字架にかかるためにこの世に来られたが、そうなるためにはこの世の裁判で死刑の判決を受ける必要があった。そのために主はまずユダヤの裁判、次にローマの総督ピラトの裁判を受けた。主は真夜中に逮捕されたが、夜明けに始まる裁判の前に、監視員による暴行や大祭司カヤパのしゅうとアンナスによる予備審問を受けた。夜明け後、最高法院が始まった。マタイやマルコでは「神の神殿を壊して、それを三日で建て直す」の証言から始まったがイエス様は黙り、裁判は進まなかった。ルカはそれを省略し「おまえがキリストなら、そうだと言え」から始め、しばし言葉のやり取りを記している。その後、マタイもマルコもルカも主が「今から後、人の子が力ある神の右の座に着く」と言ったことで議員達が激怒して「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と叫び、イエスが神を冒涜したと決めつけたことを記している。「神の右の座に着くこと」がなぜ冒涜なのか?そこは神にとって大切な神の子が座る所だから、人に過ぎないイエスが座ることは冒涜だとユダヤ人は考えたからだ。ヨハネ19章「律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから」

もともと神の子であるイエス様は人としてこの世に来られ、自分のことをよく“人の子”と言い、神の子であることを隠していた。それを公表したら殺される危険があったからである。けれども、この時“時が来ていた”のでイエス様はあえて本来の自分を公表して冒涜罪にされ、死刑の宣告を受けた。けれども、最高法院は死刑の宣告をしても処刑する権限がなかったので、すぐにイエス様をその権限を持つピラトの所に連れて行った。ローマ法では神への冒涜は罪にならず“気が狂った”程度に思われるから「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、――」とローマに対する反逆罪でイエス様を訴えた。けれども、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」主はカエサル(ロ―マの皇帝)に税金を納めることを禁じてはいない。ピラトも「――おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった」と彼らの偽りを見抜いていた。だから反逆罪は彼らの捏造である。けれども、その後、ピラトは扇動された民衆の圧力に屈して罪のないイエス様を不本意ながら十字架にかけてしまった。

けれども、そうなることで神のご計画は成就した。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」イエス様の裁判は、サタンに操られ、罪のないイエス様に捏造した罪を擦り付ける邪悪で不正な裁判だ。けれども、ピラトのしたことを正当化するのではないが、サタンの企みが功を奏し、ピラトが間違った判決を下すことでイエス様は十字架にかけられ、かえって神のご計画が成就して私達を神の義とする救いの道が定められた。それは私の理解を超えたことだ。イザヤ55章「天が地より高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」

神のみこころは、私達やサタンの思いよりも遥かに高い。サタンはイエス様を十字架にかけて“上手く行った”と喜んだだろうが、実はイエス様を十字架にかけることではサタンは完全に敗北し、イエス様が勝利した。神のみこころは人間やサタンの考えることを遥かに超えている。私達は十字架のみわざを通して人間の考えを遥かに超えたことを行う神の偉大さを思うことができる。偉大な神をあがめよう。