ルカ23:26-31、21:36

“自分と自分の子供たちのために泣きなさい”  内田耕治師

 

刑場に引かれていくイエス様には民衆を別にしてクレネ人シモンと嘆き悲しむエルサレムの娘達が同行した。激しい暴行で体力を消耗したイエス様の代わりに兵士達がシモンを捕まえ、彼に無理やり十字架を担がせた。でも、十字架を担いだことで彼の息子達やクレネの地に祝福が広がった。

当時のユダヤには葬儀をするとき、泣き女を雇って派手に泣かせる習慣があり、死者のために泣くことは良いことだったので進んで泣く女性達が現れた。彼らはイエス様を信じてはいなかったが、気の毒に思って同情したか、あるいは善行を積むために泣いた。でもイエス様はエルサレムの娘達に泣く必要はないと語った。なぜなら「“不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸い”と言う日が来る」からである。それはどんな日か?21章を見ると分かる。

21:23「それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れ」23章と同じ時を描いている。その時とは「――人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国の人々のところに連れて行かれ、異邦人の時が満ちるまでエルサレムは異邦人に踏み荒らされる」これはエルサレムに外国軍が攻めて来たことだが、AD70年にローマ軍がエルサレムを陥落させ、ユダヤ人は国を失い、流浪の民となった。21章をさらに読むと世の終わりのことになる。「それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。―――そのとき、人々は人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見る」「放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように」これは世の終わりの再臨だ。21章は今から見て過去があり未来がある。

23章も同じだ。イエス様は「人々は山々に向かって“私たちに上に崩れ落ちよ”と言い、丘に向かって“私たちをおおえ”と言い始める」と語る。酷い苦しみを逃れたくてすぐに死にたいという叫びだ。最後に「生木にこのようなことが行われるのなら、枯れ木にはいったい何が起こるでしょうか」と語った。「生木」は罪のないイエス様。「生木にこのようなことが」とはイエス様が私達の罪のために十字架にかかること。「枯れ木」とは自分達は神の民だと言って高ぶり形だけでいのちがない信仰のユダヤ人。「枯れ木に、いったい何が」はそんなユダヤ人への警告だった。その警告通りにAD70年に神がローマを用いてユダヤ人をさばいた。それは私達への警告でもある。

だから「枯れ木」は現代の私達でもある。もし私達がまことの神から離れて、高ぶり、形だけでいのちのない信仰になり、形さえなくしてこの世に調子を合わせ、自分を満たすことだけを求め、他人に無関心ならば私達も再臨の時さばかれる。そう考えると「エルサレムの娘たち、――」の意味が分かる。「自分自身と、自分の子供たちのために泣きなさい」とは悲しくて泣くのではない。神とその御子を悲しませる私達の罪の現実を思い知らされてへりくだり悔い改めることだ。また自分だけではない。自分の子供たちが、同じように神と神の御子を悲しませる状態になっていないだろうか。子供達のことを言い出したら、本当に神の前にへりくだる必要を思い知らされるのではないか。私達の目指す目標は、やがて来られる人の子イエス様の前に立つことだ。恐れることなく恥じ入ることなく立てるように自分と自分の子供たちの罪の現実をよくわきまえて泣いていこう。