ルカ22:31-34,54-62
“立ち直ったら兄弟たちを力づけなさい” 内田耕治師
“立ち直ったら兄弟たちを力づけなさい”という題で、最後の晩餐でイエス様がペテロのために執り成しの祈りをするところと、その後でペテロがイエス様を3回否定するところの2カ所からお話しします。前回と同じように同じ共観福音書であるマタイやマルコと比較しながら、これらの箇所を学んでいきたいと思います。
まず今日の最初の箇所は、ペテロがサタンの試みを受けることや彼のためにイエス様が祈ったことをイエス様が語ると、ペテロは“自分は大丈夫です”と言い、イエス様がペテロが3回主を否定することを予告するところです。このようなことばのやり取りはマタイ、マルコ、ルカ全部とヨハネにありますが、マタイ、マルコは似ていますが、ルカはだいぶ違います。
まずマタイやマルコではそのやり取りは最後の晩餐の後でオリーブ山に行く途中で起こりました。イエス様が「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる」と言って皆がつまずくと予告したことに反発してペテロが「たとえ皆があなたにつまづいても、私は決してつまずきません」と言い張りました。次にペテロがそのように言い張ると、イエス様が「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います」と予告しました。するとペテロは再度、反発して「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言いました。けれども、ルカではイエス様とペテロのことばのやり取りはすべてオリーブ山に行く前の最後の晩餐でなされたことでした。またマタイやマルコでは「羊飼いを打つと、羊が散らされる」というつまずきの予告がキッカケとなってイエス様とペテロのやり取りがなされました。けれども、ルカでは「――羊が散らされる」という弟子達に対する予告はなくて、シモン・ペテロに対して「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。」というルカだけにあるつまずきの予告がキッカケとなってイエス様とペテロのやり取りがなされました。またペテロがその予告に反発して「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と言って強い意志や忠誠心を示しました。するとイエス様は「ペテロ。あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」というつまずきの予告を語りましたが、それに対してペテロが言い返したことばはありませんでした。
では、まず「サタンが弟子達をふるいにかけることを願って聞き届けられた」とは何のことか?「ふるいにかける」とは、穀物などの粒をふるいにかけて、網の目よりも大きい粒を残し、網の目よりも小さい粒を取り除き、大きい粒だけを集めることです。それをこの箇所に当てはめると、サタンが弟子達をふるいにかけて、信仰のある者達は残り、信仰がないか小さい者達は取り除かれるということです。けれども、起こったことを見ると、そういうことではありません。一見,強そうに見えたペテロの信仰は、イエス様が予告した通りにサタンの試みによってアッと言う間に崩れてしまい、イエス様を3回も否定して情けない姿になってしまいました。その様子が54―60節に書いてありますから見てみましょう。
ペテロは、逮捕されたイエス様のことが気になり、イエス様の後を追い、イエス様が連れて行かれた大祭司の家について行き、その家の中庭で人々がいる所に彼も交じって腰を下ろしていました。すると、ある召使の女がペテロを見て「この人も、イエスと一緒にいました」と言うと、ペテロはそれを否定して「いや、私はその人を知らない」と言いました。しばらくして、他の男がペテロを見て「あなたも彼らの仲間だ」と言うと、ペテロは「いや、違う」と言いました。それから1時間ほど経って、また別の男が「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」と言うと、ペテロは「あなたの言っていることは分からない」と言うと、すぐに鶏が鳴いてイエス様が言った通りに鶏が鳴く前に3回もイエス様を否定してしまいました。ところで、その時ペテロがイエス様の弟子だと認めると逮捕されて酷い目に遭うのか?そうでもありませんでした。ヨハネ伝18章を見ると、ペテロともう1人の弟子が大祭司の家に行き、その中庭に入りました。もう1人の弟子は大祭司の知り合いだということがあるものの、彼は平気でその中庭に入ることができました。しかしペテロはイエス様の弟子だと知られることを恐れていました。
ペンテコステの後、弟子達がキリストの御名を宣べ伝えて騒動が起きたために捕まえられてしばらく牢獄に入れられたことがありましたが、キリストの弟子であることだけで投獄されることはありませんでした。ずっと後でステパノの殉教の時からキリストの弟子であるだけで逮捕される迫害が起こりましたが、それ以前はキリストの弟子であるだけで迫害されることはありませんでした。パウロは、ローマ書で「わたしは福音を恥とはしません」と言いましたが、ペテロは身に危険が迫っていないにもかかわらず恥ずかしくて主を告白できなかったのです。ペテロとは“岩”という意味です。彼はその名前のように“岩”のような強い意志を持ち、主への忠誠心を持っていました。けれども、そういう意志や忠誠心によって彼はサタンの試みを乗り越えることはできなかったのです。むしろ、ペテロは自分の意志や忠誠心をサタンのふるいにかけられてその脆さを白日の下に晒されてその脆さを思い知る必要がありました。けれどもペテロはその脆さを思い知らされた後で立ち直り、弟子として歩み、奉仕を続け、大きな働きをすることができました。では、どうしてペテロは、立ち直り奉仕を続けることができたのか?「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」と主は言われました。ペテロの知らないところで主が彼のために祈っていたから、彼は立ち直り、弟子であり続け、やがて良い働きをするようになりました。
信仰とはその人の意志の強さや忠誠心によるものではありません。自分には強い意志があるから自分の信仰は強い、自分には忠誠心があるから自分の信仰はしっかりしていると誇っていたら、それは間違いです。ペテロは自分の強い意志や忠誠心を頼りとしていたのでサタンの試みによってその信仰があっけなく崩れてしまいました。けれども、彼のために主が祈ってくださったから、崩れかけた彼の信仰は立ち直り、その信仰が大きく成長することができました。私達の信仰は、自分の意志や忠誠心を超えた見えないところで私達のために主が執りなす祈りに支えられているのです。だから天のおられる主が自分のために祈っていることを覚えることによって私達の信仰は支えられていくのです。
それから主がそのように祈って私達の信仰を支えることには、ある目的があります。それはイエス様がペテロに「ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言ったように他の人の信仰を励ますということです。信仰とは、まず主に祈られることから始まりますが、それだけで終わりではなく、次に他の兄弟姉妹のために祈り励ますことに発展します。また他の兄弟姉妹のために祈り励ますだけではありません。彼らに祈られ励まされることも含みます。互いに祈り合い、励まし合うのです。
信仰とはまず主と自分の関係から始まりますが、主と自分の関係だけで終わるのではなく、次に自分と他の兄弟姉妹の関係に発展するのです。もし、信仰を主と自分だけの関係に限定するならば、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というみことばを無にすることになります。だから信仰が自分だけで完結するのではなく、聖徒の交わりを生み出し、教会を造り出すことを表しています。イエス様がペテロに語ったことは、イエス様が一旦、信仰の挫折を経験するぺテロによって御自身の教会を建て上げようとしていたことを表しています。
ペテロだけではありません。他の弟子達もイエス様が逮捕されたとき、皆、逃げることによってそれぞれ信仰の挫折を経験しました。だから信仰の挫折を経験した弟子達によって教会は建て上げられました。ペテロはその代表でした。今もそれは同じです。たとえ信仰の挫折をしたとしても立ち直れば、その人は大いに用いられ、その人によってキリストの教会は建て上げられます。
この世では、一旦挫折すると、それがマイナス要素になり、ビジネスで不利になることがありますが、信仰の世界ではそんなことはありません。たとえ挫折があったとしても、立ち直れば大いに用いられて神の栄光を現わし、教会を建て上げることができるのです。主は挫折した者を見捨てることなく、諦めることなく、期待しておられるのです。そのことが、ペテロの挫折の中に示されています。ペテロが主を3回も否定した出来事はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの全福音書に書いてあります。多少の違いはありますが、4つの福音書は同じようにペテロの恥ずかしい挫折を記しています。
ところで、ルカだけがペテロが恥ずかしい挫折をしている中でイエス様がほんの少し姿を現します。それは“イエス様を知らない”と言い張っていたペテロをイエス様が振り向いて見つめたところです。61節に「主は振り向いてペテロを見つめられた」と書いてある通りです。
私は昔、このイエス様の眼差しはイエス様を否定するペテロを“情けない”と思うイエス様の嘆きを表すものだと思っていました。人間的に考えると、せっかく訓練して育ててきたのに、育てた自分を否定されたのではガッカリするのは当然です。けれども、挫折した者を立ち直らせて用いてくださる主を考えたら、見方が変わります。「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というみことばによると、この主の眼差しは“それでも、ペテロよ、あなたに期待しているよ”という主の無言の祈りだと考えられます。イエス様を否定したことだけで考えると、この眼差しはイエス様の嘆きのように思えますが、ペテロのためのイエス様の執り成しの祈りに従って考えると、それはそれでもぺテロに期待する主の祈りと解釈することができます。だから、主はペテロを見捨てることなく期待し続けたのです。
そう考えると、その後、ペテロが外に出て激しく泣いたことの意味が分かります。主の眼差しを主の嘆きと考えると、その意味は主を嘆かせてしまって申し訳ないという後悔となります。けれども、主の眼差しを見捨てることなく期待し続けることと考えるなら、それでも期待して下さる主の愛に感激したことと考えられます。人間の感情は複雑ですから、両方が混ざっているでしょうが、どちらかと言うと、主の愛への感激の意味のほうが大きいと思います。ところで、ペテロと同じように今の私達にも、主は同じような眼差しを向けています。特に私達が何かに失敗し挫折したときに、主は“それでも、あなたに期待しているよ”という眼差しを向けています。足りないところだらけの私達ですが、そんな私達を主は見捨てないで期待しておられます。
だから、主が期待しておられることを心に留めて、自分が立ち直るだけでなく、兄弟たちを力づける働きを続けて行きましょう。