ルカ24:1-12

”十字架で死に三日目によみがえるイエスキリスト”  内田耕治師

 

イースターは主の十字架の死と復活というキリスト教の根幹を表す記念日だ。十字架と復活は神のご計画であり、十字架はイザヤ53章に、復活は詩篇16篇にそれぞれ預言がある。またイエス様ご自身がその苦難と死と復活を予告していた。けれども、弟子達も彼らに従う女性達もその予告を聞きながら、よく分からず、不吉だと思い聞きたがらず、死からの復活は謎に包まれ、聞いたみことばは意識の下に深く沈み、忘れた状態だった。そんな状態でイエス様は十字架にかけられ殺され、墓に葬られた。週の初めの日の早朝に女性達が香料をもって墓にやって来たとき、墓は開き、主の遺体はなくなり彼女達は途方に暮れた。すると2人の御使いが現れた。そのあたりをマタイやマルコは周辺的なことも含めて詳しく書いているが、ルカは御使い達が彼女達に語ったメッセージのみに焦点を当てている。大切な言葉は「思い出しなさい」である。

そのメッセージは主が十字架で死に復活したことを伝えるのは同じだが、マタイやマルコには“復活の主が先に行ったガリラヤにあなたがたも行きなさい”と女性達を通して弟子達に伝えるもう1つの目的があった。だが、ルカはそれを省略して純粋に彼女達に主が語った死と復活の予告を思い出させることだ。その目的通りに彼女達は御使いのメッセージを聞いてイエス様のことばを思い出した。次に彼女達は墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に思い出したことをすべて報告した。かつて聞いたけれども信じないで意識の下に沈んでいたみことばはよみがえったのである。もしイエス様が望めば、初めに復活した姿を見せて“わたしはよみがえった。信じなさい”と言うこともできた。しかし、主はそうなさらないで御使いを先に遣わして「主がお話しになったことを思い出しなさい」と語らせた。それは彼女達が見ないでみことばによって信じるように導くためだった。この箇所に「信じる」という言葉はないから彼女達は主のみことばを信じたのか、あるいは思い出しただけだったのか分からない。けれども、彼女達が報告すると弟子達が“たわごとだ”とけなしたことは彼女達が主のよみがえりを事実として語ったことを表す。もし彼女達が“主の予告を思い出したが、まさか、信じないよ”と言ったら、けなされることはなかったからだ。

彼女達は御使いのことばによって信じるように導かれたが、私達は聖書が与えられているから見なくてもみことばによって信じるように定められている。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」ところで、見ないで信じることが信仰の基本だが、中には見る必要がある人達がいて神はその人達には見せてくださる。それは誰か?女性達の報告を“たわごとだ”とけなした弟子達だ。信仰の基本からすると弟子達は不信仰で、女性達のほうが信仰的だ。けれども、彼らは主の復活の証人である“使徒”となるために神のご計画のうちによみがえった主に出会うように定められていた。女性達をけなした彼らは復活の主に出会ってへりくだったことだろう。けれども、彼ら以外のほとんどの人達は見ないで、みことばによって信じるように定められている。私達は、弟子達や彼らに従った女性達のようにみことばを忘れやすい弱さがある。みことばを読んだにもかかわらず、聞いたにもかかわらず、それは意識の下に沈み、忘れていることが多い。けれども、忘れたとしてもみことばが消え失せたのではない。消え失せたように思えても心のどこかに存在し、思い出される時を待っている。