礼拝説教の要旨・2025年4月20日・ヨハネ20:1-18
“復活の主はマグダラのマリアに現われた”
男性中心の社会で女性のマグダラのマリアに最初に復活の主が現われた。共観福音書には他の女性達の名前もあるが、ヨハネ伝はマグダラのマリアだけ。彼女はイエス様に7つの悪霊を追い出してもらい、食事会に入って来た1人の罪深い女と言われる。彼女にはイエス様への愛と感謝があふれていた。マリアが墓に行くと石が取り除けられ、イエス様の遺体がない。彼女が知らせるとペテロともう1人の弟子が墓に行った。ペテロが墓に入り、先に着いたもう1人の弟子はペテロの後で入り「見て、信じた」何を信じたのか?「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」信じたと言っても主の復活は信じていなかった。
2人の弟子達は帰ったが、マリアはその後も墓の外にたたずんで泣いていた。墓の中に2人の御使いがいた。だれでも悲しみや怒りなどの強い思いに支配されると自分の世界に閉じこもり周囲が分からなくなるが、マリアはそんな状態だった。彼女は2人が御使いだと分からず自分の悲しみを訴えた。イエス様もいたが分からずイエス様を園の管理人と思った。でも、主が「マリア」と声をかけると、彼女は主がよみがえったことに気づき「ラボ二(先生)」と言った。マリアは失ったイエス様を取り戻して“もう失わないぞ”とすがりついた。主はそんなマリアに「わたしにすがりついていてはいけません」と言った。冷たい感じがするかもしれないが、この時イエス様は大切なことを教えようとしていた。それは、教会を建て上げることだ。
復活したイエス様は、短い間、弟子達とともにいて天の神のもとに戻ろうとしていた。その間に、神を父とする兄弟達の交わりを造ろうとしていた。「兄弟達」は神の家族である教会を表す。マリアに託したイエス様のみことばにも神の家族である教会が現れている。「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」これは天の神のもとに戻る昇天とともに神の家族である教会のことも言っている。イエス様の父は、あなたがたの父つまりマリアの父であり、弟子達の父であり、そして今の私達の父だ。またイエス様の神は、あなたがたの神つまりマリアの神であり弟子達の神であり、そして今の私達の神だ。これらはマリアに託したみことばは教会の設計図だ。主はもうじき昇天していなくなるが、この世に神を父とする教会を残していこうとしていた。だから主はマリアに教会の設計図を託して彼女がこれから兄弟姉妹とともに教会を建て上げるようにした。
この時、マリアは失ったイエス様を取り戻した喜びに満ち溢れていたが、1人だけで喜んでいたのでは教会を建てることはできない。また“取り戻したイエス様を絶対手離さないぞ”と思っても、取り戻したイエス様はもうすぐ昇天し、人としてのイエス様はもうすぐいなくなる。そんなイエス様の願いは、主の復活の喜びを分かち合う教会をこの世に残すことだ。宣教とは結局、教会を残していくことだ。宣教とはよく福音を伝えて人々が神に立ち返るようにすることだと言われる。それは間違ってはいないが、少し足りないことがある。それは神に立ち返った人々が集まって神の家族である教会を建て上げることだ。主は教会を建て上げる使命を私達に与えた。この使命を忘れないで主の復活の喜びを分かち合うことができる教会を建て上げていこう。