礼拝説教の要旨・2025年4月6日・ヨハネ18:28-40
“あなたの知らない真理の王イエスキリスト”
夜明け頃、最高法院が終わり、イエス様は冒涜罪で死刑判決、だがユダヤ人に死刑の権限がないのでローマの総督ピラトのもとへ。ユダヤ人達は異邦人の家に入って汚れ、過越の食事を食べられなくなることを恐れてピラトの官邸に入らない。ピラトはわざわざ外に出て来て「この人に対して何を告発するのか」と質問。ユダヤ人達は「この人が悪いことをしていなければ、あなたに引き渡したりはしません」質問に答えない変な返答だが、それは冒涜罪はローマ人には意味がないし罪にならないし、ユダヤ人達もそれが分かっていたからそんな返答をした。「おまえたちがこの人を引き取り、自分達の律法に従ってさばくがよい」とピラトが言うと、「私達はだれも死刑にすることが許されていません」と反論。依然としてピラトの質問への答えはない。ルカ23章でユダヤ人達は「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っている」と訴えたが、「この人には訴える理由が何も見つからない」とピラトは本気にしていない。
ピラトはイエス様に「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ねたが、イエス様をローマ帝国に反逆する輩だと思ってそう尋ねたのではない。むしろイエス様は得体の知れない存在なのでどう対応すべきかヒントを得ようとして尋ねた。一方、主は「あなたは、そのことを自分で言っているのですか、それともわたしのことを、ほかの人々が話したのですか」と尋ねてピラトがどの程度、理解しているか探った。「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長達が、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか」ピラトは何もわかっていない。主は彼に神の良い知らせを伝えた。
「わたしの国はこの世のものではありません。――」ピラトもユダヤ人達もこの世の国を思い描いていたが、イエス様の国はこの世のものではない。17章の大祭司の祈りに「わたしがこの世のものではないように、彼らもこの世のものではないからです」これはイエス様や弟子達がこの世に暮らしていないという意味ではない。この世で生活するが、この世ではなく神に属する者である。私達もキリストを信じるゆえに天の国籍があり天からそれぞれの国に遣わされている。天とは神の国。そしてイエスキリストは神の国の王だ。「わたしは、真理を証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」これも17章を読めばわかる。「真理」とはイエス様のみことば。「真理を証し」するとは、この世の人々にみことばを伝えて聖別すること。聖別とはこの世に属する人達を神に属する者にして天の国籍を与えること。
イエス様がそうするためには人類の罪の身代わりとして十字架にかかる必要があった。ピラトもそのために用いられた。彼はイエス様には罪がないことが分かり「私はあの人に何の罪も認めない」と言った。そう言ったなら釈放しなければならないが、彼はユダヤ人の反発を恐れて過越の祭りで囚人の1人を釈放する慣わしを用いてイエス様を釈放することを考えた。バラバという強盗もいたが、人々はかつて慕われたイエス様の釈放を求めると彼は考えた。だが、祭司長達は人々を扇動してバラバは釈放、イエス様は十字架。箴言16章「すべてのものを、主はご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた」ピラトの過ちで罪のない者が処刑された。でも、人類に救いの道をもたらすには必要だった。神は人間の過ちさえ神のご目的のために用いるのだ。