礼拝説教の要旨・2026125日・ルカ9:37-4

“不信仰で曲がった時代に忍耐する神“

今日の箇所似たお話がマタイマルコにあるが、違いを調べてルカの特徴に気づくとルカならではのメッセージが見えて来る。ある父親悪霊につかれた1人息子の解放と癒しを弟子達にお願いしが、できなかったので父親はイエスにお願いし、主はその子を癒したこれは3つの福音書共通だが、違いたくさんある。マタイは弟子達がイエス「なぜ私達は悪霊を追い出せなかったのですか」と尋ねると、は「あなたがたの信仰が薄いからです。――」と語り、信仰を持つよう勧めた。マルコは弟子達が「私達が霊を追い出せなかったのはなぜか」と尋ねると、は「この種のものは、祈りによらなければ、―――」と語り、祈ることを勧めた。またマルコは主がその息子の状況を尋ねたとき、父親「おできになるなら、私達をあわれんでお助けください」と言うと、主は「できるならと言うのか。信じる者には、どんなこともできる」と諭し、父親「信じます。不信仰な私をお助けください」とったでもマタイでは主が父親に語ったことは書いてない

一方、ルカは弟子信仰のことも父親の信仰のことも書いてないが汚れた霊を叱り、その子を癒して父親に渡し、人々が神の偉大さに驚嘆したことだけ書いてる。

さて3つの福音書は共通して「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。――と独り言の不満を記している。だがマタイ、マルコルカでは不満向け先が違うマルコやマタイには父親や弟子達を責める言葉あるから「あなたがた」は弟子達や父親であり、彼らの不信仰に対する不満と考えられるだが、ルカには父親や弟子達を責める言葉ないからその不満は他のものに向けられていでは、他のものとは何なのか?「不信仰な曲がった時代」と書いてあるから独り言に現れた不満はその時代に向けられている

イエス様はひとり子の神だから、それは神がその時代に対して抱く不満。神正しく聖なるお方だから不信仰な曲がった時代に対して不満を持って当然もし神が全く不満を持たず“すべて良し”と言うならそんな神は真の神ではない。ノアの大洪水を見れば明らかである。「我慢」という言葉に注目。神は不信仰で曲がった時代に不満を抱くだけでなく我慢する。我慢とは忍耐である。神は罪と悪に満ち、曲がったこの世界に忍耐しておられ。私達は、神から離れ、自分や自分のを神にし科学や経済的繁栄を神にし、国家や王を神にし、他者へのあわれみのない自己中心的な性質のゆえにこの時代やこの世界を曲がったものにしている。神はそんな時代や世界を見て、ノアの時のように“終わりにしたい”と思が、そうしないで忍耐寛容人類見守ローマ2:4-5参照。それは人間が罪を認めて悔い改めるためである見方変えると、神の忍耐は人類にとって救いの道が開かれていること。「主は――約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです救いの道がまだ開かれている今のうちに滅びゆくの救いのために祈り、福音を伝えて行こう。そのために私達この世にいるのだから。