礼拝説教の要旨・2026年1月25日・ルカ9:37-43
“不信仰で曲がった時代に忍耐する神“
今日の箇所と似たお話がマタイやマルコにあるが、違いを調べてルカの特徴に気づくとルカならではのメッセージが見えて来る。ある父親が悪霊につかれた1人息子の解放と癒しを弟子達にお願いしたが、できなかったので父親は主イエスにお願いし、主はその子を癒した。これは3つの福音書に共通だが、他は違いがたくさんある。マタイは弟子達が主イエスに「なぜ私達は悪霊を追い出せなかったのですか」と尋ねると、主は「あなたがたの信仰が薄いからです。――」と語り、信仰を持つよう勧めた。マルコは弟子達が「私達が霊を追い出せなかったのはなぜか」と尋ねると、主は「この種のものは、祈りによらなければ、―――」と語り、祈ることを勧めた。またマルコは主がその息子の状況を尋ねたとき、父親が「おできになるなら、私達をあわれんでお助けください」と言うと、主は「できるならと言うのか。信じる者には、どんなこともできる」と諭し、父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と語った。でも、マタイでは主が父親に語ったことは書いてない。
一方、ルカは弟子達の信仰や祈りのことも父親の信仰のことも書いてない。主が汚れた霊を叱り、その子を癒して父親に渡し、人々が神の偉大さに驚嘆したことだけを書いている。
さて3つの福音書は共通して「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。――」と独り言の不満を記している。だがマタイ、マルコとルカでは不満の向け先が違う。マルコやマタイには父親や弟子達を責める言葉があるから「あなたがた」は弟子達や父親であり、彼らの不信仰に対する不満と考えられる。だが、ルカには父親や弟子達を責める言葉がないからその不満は他のものに向けられている。では、他のものとは何なのか?「不信仰な曲がった時代」と書いてあるから主の独り言に現れた不満はその時代に向けられている。
イエス様はひとり子の神だから、それは神がその時代に対して抱く不満だ。神は正しく聖なるお方だから不信仰な曲がった時代に対して不満を持って当然だ。もし神が全く不満を持たず“すべて良し”と言うならそんな神は真の神ではない。ノアの大洪水を見れば明らかである。「我慢」という言葉に注目。神は不信仰で曲がった時代に不満を抱くだけでなく我慢する。我慢とは忍耐である。神は罪と悪に満ち、曲がったこの世界に忍耐しておられる。私達は、神から離れ、自分や自分の欲を神にし、科学や経済的繁栄を神にし、国家や王を神にし、他者へのあわれみのない自己中心的な性質のゆえにこの時代やこの世界を曲がったものにしている。神はそんな時代や世界を見て、ノアの時のように“終わりにしたい”と思うが、神はそうしないで忍耐と寛容で人類を見守る。ローマ2:4-5参照。それは人間が罪を認めて悔い改めるためである。見方を変えると、神の忍耐は人類にとって救いの道が開かれていることだ。「主は、―――約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」救いの道がまだ開かれている今のうちに滅びゆく魂の救いのために祈り、福音を伝えて行こう。そのために私達はこの世にいるのだから。
