礼拝説教の要旨・2026年1月4日・マタイ2:7-23、イザヤ53:4-6
“ナザレ人と呼ばれたイエスキリスト”
一般的にナザレ人はあまり知られていないが、キリスト者の間ではそれはイエスキリストが
どんなことになるのかを教えてくれる大切な名前だ。イエス様がナザレに落ち着くまでの過程を見てみよう。それは東方の博士達の訪問から始まる。博士達は生まれた新しい王を礼拝するためにやって来たが、ヘロデ王は自分の王位を狙う者が現れたと思い、祭司長や律法学者から新しい王が生まれたのはユダのベツレヘムだと聞くと、博士達を先に行かせ、幼子の居場所を探させて殺すつもりだった。星に導かれた博士達は幼子を見つけて礼拝し、贈り物をささげ、夢で警告されて別の道を通り、自分の国に帰った。一方、ヨセフは夢で主の使いからエジプトへの逃避行を命じられ、ただちに従った。ヘロデは博士達が帰らないことで騙されたことに気づき激怒して、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を虐殺した。幼子とその家族はしばらくエジプトで生活し、博士達にもらった贈り物は生活費に役立った。
ヘロデが死ぬと、主の使いが夢でヨセフに現れイスラエルの地に戻ることを告げたのでヨセフは幼子とその母を連れてエジプトを去り、初めユダヤに住むことを考えたが、領主アルケラオの残忍な評判を聞いて恐れを覚え、夢でも警告されたのでユダヤに住むのを止めて,北のガリラヤに行った。どこに住むのか?彼は考えたが、結局、かつて住んでいたナザレに住むことになった。ナザレはヨセフとマリアにとって故郷でありながら住み心地の良い所ではなかった。なぜか?ナザレの人々はマリアが聖霊によって身ごもったことを理解できず、
彼女を不貞の罪を犯した女として蔑み、イエス様を母の不貞のゆえに生まれた子と見たからだ。父ヨセフは当時、底辺の仕事である大工をし、ヨセフは早く亡くなり、長男のイエス様は大工として働き、一家を支え、社会的にはあまり恵まれない生活だった。だが、ナザレに住み、そこで救い主として姿を表し、「彼はナザレ人と呼ばれる」ことは神のご計画だった。
聖書の名前には意味が込められている。ナザレの意味は何か?当時のイスラエル人は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と蔑んだ。「彼はナザレ人と呼ばれる」はイエス様が蔑まれること。“イエス様を蔑むなんてとんでもない”と思うかもしれないが、詩篇22篇にその預言がある。「私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です。私を見る者はみな、私を嘲ります。口をとがらせ、頭を振ります」主の十字架でその通りのことが起こった。私達は普通正しい人を蔑むことはない。正しくない人つまり罪を犯した者を蔑む。だが、イエス様は何の罪も犯していない。反対に良いこと正しいことだけをした。それなのに蔑まれた。でも、それが神のご計画だ。人々の罪を代わりに背負い、罪がないのに罪人とされる人の預言がイザヤ53章にある。「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された」「彼」とはイエス様。主の十字架によって私達は罪から救われる。「ナザレ人と呼ばれる」には、私達を罪から救う主の十字架という神の偉大なご計画が隠されていたのである。
