マタイ4:5-7
“あなたの神である主を試みてはならない” 内田耕治師
悪魔は2回目の試みをしました。救い主の活動は、人々にみことばを伝えることですから人が集まらなければその働きは出来ません。でも、そう簡単に人は集まるわけではないので、人を集めることで苦労します。それで悪魔は手っ取り早く人を集めるためにサーカスのアクロバットのようなことをして人々の注目を引いて人集めをすることを提案しました。それが聖なる都の神殿の屋根から飛び降りることでした。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい」つまり、イエス様に向かって“あなたは神の子だから、神は絶対にあなたが死ぬことがないように守って下さる。だから、もう少しで死んでしまうスレスレのところで神があなたを守られる凄いところを見せて人々にアピールしなさい”言いました。しかも、悪魔はみことばをよく知っていたのでその提案の根拠として詩篇91篇の「神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする」というみことばを上げました。悪魔の本当の意図はイエス様がそのみことば通りにしたとき、御使いは来なくてイエス様が真っ逆さまに落ちて死ぬことでした。でも、口では“御使いが必ずやって来て守ってくれるから大丈夫!と勧めていました。
でも、イエス様はその提案を拒否しました。どうしてか?悪魔の本当の意図がわかっていたというよりもその提案が主を試みることだったからです。飛び降りてもし神が遣わした御使いがやってきて守ってくれたら“神は偉大だ”と神をほめたたえ、守ってくれなかったら“神は頼りにならなかった”と言う。つまり飛び降りることは主が本当に助けてくれるかどうか主を試みることなのです。もし神殿の屋根から飛び降りて死ぬことが神のご計画なら、イエス様は喜んで飛び降りて死んだことでしょう。しかし、それは神のご計画ではないのでイエス様は「“あなたの神である主を試みてはならない”とも書いてある」とその提案を拒否したのです。「書いてある」これは旧約聖書の申命記6:16の「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない」の引用です。出エジプト記17章でエジプトを出たイスラエル人が荒野で飲む水がないときに、指導者モーセに文句を言って「主は私達の中におられるのか、おられないのか」と言って主を試みたことから来ています。結果として主は信仰の弱いイスラエル人達を哀れんで岩から出る水を与えて彼らを生かして下さいました。けれども要求に応じるだけでなく、主を試みるイスラエル人の姿勢を戒めました。
このイスラエル人と同じように信仰の弱い私達の内には正直言って主を試みる思いがあります。主を試みる思いがあるからと言って罪を犯しているのではないですが、その思いのままに歩んでいるとひどい試練に襲われるとき、神から離れてしまうことがあります。普通、苦しい時の神頼みと言いますが、苦しい時の神離れもあるのです。苦しい時はいつまでも続くのではなく、そのうちに過ぎ去ります。それはしばしの苦しみです。けれども、主を試みる思いがあると、しばしの苦しみでも主に期待して待つことができなくて神離れを起こします。だからこそ、そうならないように主は「あなたの神である主を試みてはならない」と警告するのです。
新入社員は初め3ケ月くらいの試用期間があります。その期間、雇い主は新入社員もまだ互いに完全に信頼しているのではなく、様子を見ています。試用期間は雇う側と雇われる側のミスマッチを防ぐために設けた人間どうしの取り決めです。けれども、神と人間は全然違います。神はどんな人でも受け入れるお方です。私達がどんなに罪深くても神は御子イエスの血によって赦しを与え、信じたら即、神の子として受け入れてくださいます。会社は仕事のできない者を切り捨てようとしています。けれども神は選んだ私達を決して見捨てることはありません。たとえ仕事ができなくても欠けだらけでも、選んだ私達をその大きな恵みによって最後の最後まで守り、天国に導いて下さいます。それなのに私達はなかなか神を信じ切れなくて密かに神と試用期間のような付き合い方をするのです。たとえば、神はどこまで助けてくれるのか?どこまで守ってくれるのか?そんな思いを心のどこかに抱きながら神を信じています。神は全面的に私達を受け入れているのに、私達は神を受け入れていない部分があります。それが主を試みることです。人間なら“私はお前を受け入れているのにどうしてお前はいつまで私を受け入れないのか、頭に来た、出て行け”となると思います。けれども、神は決して怒らず、そんな私達でも神から離れず、主とともに歩み、主に従うように忍耐して見守っておられます。「あなたの神である主を試みてはならない」とはそういう忍耐から出て来たみことばです。その忍耐の目的は私達の救いです。第二ペテロ3章に「主は、ある人達が遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」とあります。
主はいつでも再び来て、最後の審判を行うことが出来ます。今すぐにでも来て、すべての人をさばいて、ある人達に永遠のいのちを与え、ある人達に永遠の滅びを与えることが出来ます。けれども、すべての人が悔い改めて救われるように忍耐しておられます。さらにその忍耐はすでに主を信じた私達にも向けられています。“主を信じます”と言いながら、密に主を試みる思いを抱きつづける私達に対して、主は愛想を尽かして匙(さじ)を投げることはありません、愛によって忍耐して静かに私達を見守っています。そして主を試みる思いが私達を滅ぼすことがないように、時々「あなたの神である主を試みてはならない」と語りかけています。私達はこの世では、試したり試されたりをしています。私達は試すことによって自分を守ろうとします。人間どうしの間ではそれが普通です。けれども、私達を愛して守って下さる主を試す必要はないのです。もし主を試すならば、私達は自分を守るのではなく、反対に主から離れて自分を滅ぼしてしまいます。だから主を試みてはならないのです。それは私達を滅びから救うための神の戒めなのです。
では、最後に主を試みることがない信仰とはどのようなものか?それはどんなことでも主の導きをすべて受け入れていく信仰です。ヨブ記1章に「―――主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」とあります。普通、私達は与えられることばかりを求めて、取られることを嫌がります。だから主は本当に与えてくれるだろうかと考え出して主を試みる思いが出てきます。けれども、主が与えることだけでなく、取ることも受け入れて“主は偉大だ”と主をほめたたえることが出来れば、主を試みることはなくなります。それはそう容易くできることではありませんが、取られることも神のご計画として喜んで受け入れ、自分の命を引き渡した方がいます。それが私達の主イエスキリストです。イエス様は神を試みることなく、ただ十字架という神のご計画に従い、ご自身の命を引き渡しながら神をほめたたえました。そんなイエス様をよく見たら、主を試みない歩みがどういうものかがわかります。とはいうものの私達は主を試みてしまう弱さがあります。それが私達の現実です。だから主は「あなたの神である主を試みてはならない」という戒めを与えたのです。「主を試みてはならない」この警告の戒めをしっかりと握ってどんな主の導きでも受け入れて行く歩みを目指して行きましょう。