士師記3:1-11

“主に叫べ。救助者を与えて下さる。”  内田耕治師

 

現代の感覚では理解しにくいことですが、イスラエル人は約束の地に入るとき、 “約束の地から異邦の民を追い出しなさい”というみこころを与えられていました。異邦の民の神々の誘惑から真の神への信仰を守るためです。そこまで言うのは当時の偶像礼拝には有害なものが含まれていたからと考えられます。けれども、彼らはそれに従わないで異邦の民を残したままの中途半端なことをして約束の地を占領して住んでいました。主の使いがボキムでそのことを問い詰め厳しい警告を与えて彼らは悔い改めたかに見えましたが、それは見せかけでした。けれども、主は、ご自身が選んだイスラエル人を見捨てることなく、彼らが異邦の民と平和を保ちながら真の神への信仰を妥協することなく守り通すことができるかどうか試すという新しいみこころを与えました。それは、初めに異邦の民を追い出すことよりも遥かに難しく、忍耐や知恵を要することでした。それから、もう1つみこころが与えられていました。それは戦いを知らない者達に戦いを教え知らせるために異邦の民を残したことです。今の私達は戦いを学ぶ必要はありませんが、当時の彼らは必要とあらば、戦ってでも真の神への信仰を守り通す必要があったのです。けれども、異邦の民を追い出さなかったイスラエル人は、主が心配していた通りに主から離れて他の神々を慕って仕えてしまいました。人間は見えない神との関係よりも目の前にいて見える人々との関係を優先する傾向があります。さらに人間関係が出来てしまうと、相手が持っている良いものだけでなく、良くないものも受け入れてしまう傾向があります。イスラエル人は約束の地の異邦の民と婚姻関係を結ぶことで、その関係を通して偶像礼拝を受け入れ、主の目に悪であることを行うようになりました。それは主なる神に対する背信行為でした。旧約聖書を読むと、繰り返し繰り返し同じことが起こりました。それはイスラエル人が長い歴史に渡って抱え続けた問題でした。

ところで、主から離れてしまうことは今の私達にもよくあることです。イスラエル人はほかの神々を拝むという目に見える背信行為をしましたが、私達は目には見えないですが、心の中で背信行為をしています。他のものに関心が移り、そのほうが主なる神よりも大事になって、心の中の偶像になるのです。たとえば、富や性欲や名誉欲が私達の心を支配すれば、私達はいわゆる偶像礼拝をしなくても、心の中のそういう偶像を崇めてしまい、私達は主から離れてしまいます。形は違いますが私達もイスラエル人と同じように、偶像によって主なる神から離れてしまうのです。

けれども、そのように主から離れてしまったイスラエル人は、主に立ち返ることができました。彼らは主の怒りを受けることで、主に助けを叫び求めました。主の怒りは異邦の民の王クシャン・リシュアタイムを通して表わされました。その名前が短い箇所にたくさん出て来るようにイスラエルに決定的な影響を与えました。クシャン・リシュアタイムは“二重の悪のクシャン”という意味です。それは、8年間のその支配は非常に酷いものでイスラエル人は相当苦しんだことを表します。彼らは“もう耐えられない”と思いました。けれども、クシャン・リシュアタイムの圧政は悔い改めの祈りを生み出し、イスラエル人がへりくだって必死に祈ることによって1人の救助者が起こされました。それがオテニエルです。1章にオテニエルのことが少し紹介してあります。彼はヨシュアとともに荒野の40年を乗り越えて約束の地に入ったカレブの義理の息子です。彼は前からイスラエル人の中にいた者でしたが、彼が“さばきつかさ”として立てられるためにはイスラエル人の祈りが必要でした。

その祈りのゆえにオテニエルの上に主の霊が臨み、“さばきつかさ”として立てられ、イスラエルをさばくことができ、クシャン・リシュアタイムを抑えることができ、40年に渡る平和を確立することができました。イスラエル人の祈りのゆえにオテニエルは救助者とされました。

ところで、私達にはイエスキリストという完全な救い主、完全な“さばきつかさ”が与えられていますが、私達のイエス様に働いていただくためには、私達もイスラエル人のようにへりくだって祈る必要があります。たとえば、人が1人救われるためには多くの祈りを必要とします。私達はみことばを伝えることや導いて信じる機会を与えることができますが、信じさせるのは私達の力ではなく主なる神の働きです。だから、みことばを伝えるとともに主が働いて信仰を与えて下さるように祈る必要があります。祈るとは、自分の力の限界を認めてへりくだり主の偉大な力を求めることだからです。しかも、1人だけではなく多くの人達が祈りを積み上げていくことが大切です。そのために教会では祈祷会を行って互いに祈り合います。

またイスラエル人みたいに偶像を拝む人達との関係が出来、しかも仕事や立場上、形だけでも偶像に手を合わせたほうが都合が良いと思われ、また圧力を感じるとき“しようがないや”でこの世と調子を合わせるなら、主は働きません。けれども、そんな状況で圧力を感じながらも何とか偶像礼拝から守られるように、主の助けを祈り求めるなら、主は働いて下さり、不思議にその圧力を乗り越える道や力を与えて下さいます。また私達のうちで富や性欲や名誉欲などが、主なる神よりも大きな偶像になりつつあるとき、まったく無頓着で祈らなければ、主は働かず、知らず知らずのうちに偶像礼拝に陥り、そのうちに恥ずべき罪を犯すことにもなりかねません。けれども、富や性欲や名誉欲の恐ろしさに気づいて”守ってください“と祈るならば、主は働いて下さり、そういう偶像礼拝に陥り、罪を犯すことから私達を守って下さいます。また私達にはいろんな弱さや愚かさがあり、それらが仕事や奉仕の妨げになります。だから私達はへりくだって祈る必要があります。自分で祈るのはもちろんのこと“祈って下さい”と、へりくだって祈ってもらうことも必要です。「イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために1人の救助者を起こして、彼らを救われた」このみことばを心に留めて、へりくだって祈るものとなりましょう。