礼拝説教の要旨・2025年6月29日・使徒5:17-42
“口止めされても語りたくなるイエスキリスト”
夜、主の使いが牢から使徒達を連れ出し、宮でみことばを語らせた。大祭司は彼らを尋問するために下役を遣わしたが、彼らはいない。彼らが宮で教えているとの知らせが来て下役は彼らを捕まえ、最高法院で大祭司は彼らを尋問。「あの名によって教えてはならないと厳しく命じたではないか。」だが、使徒達は「人に従うより、神に従うべきです」と尋問を受ける側なのに尋問する側にみことばを語る。人々は怒り、彼らを殺せと言い出す。だが、律法学者ガマリエルの「放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅する。しかしもしそれが神から出たものなら彼らを滅ぼすことはできない」に説得されて殺すことは止め、むちで打ち、脅して釈放。でも使徒達は全く意に介さず熱心に福音を宣べ伝えた。“凄い。真似はできない。だから日本はキリスト者が少ない”と私達は自虐的に思う。
だが、日本では江戸時代初期に世界で最も過酷で悲惨な迫害が起こったが、非常に多くのキリスト者がキリストのために命を捨てた。江戸幕府は宣教師や教会指導者だけでなく一般信徒も殺した。使徒の働きの殉教者はわずかだが、日本では万の単位で殉教者が出た。幕府は寺請け制度を作り、国民全員を仏教の寺に強制的に所属させた。キリスト者はすべて表面上は仏教徒だが、潜伏して活動した。幕府は潜伏キリシタンを見つけるために踏み絵を行い、五人組を作った。それでも彼らは秘密集会を続け、その信仰を子孫に伝えた。明治の初めに潜伏していた信者達が現れ、ヨーロッパ人は日本のキリシタンが何代にも渡って迫害下で信仰を守り通したことに驚嘆。素晴らしい足跡を残した。使徒達の迫害の目的はサドカイ派が否定する死者の復活。でも、ユダヤ教には死者の復活を肯定するパリサイ派もいたからユダヤ教全体ではなく部分的な迫害。一方、幕府は、スペイン帝国が日本を侵略して植民地にするために宣教師を先兵として遣わしたと信じて容赦のない組織的な迫害を行った。その違いが分かれば、キリストのために命を捨て、危険と隣り合わせの秘密集会を続けて信仰を子孫に伝えた彼らを尊敬の眼差しで見ることができる。
けれども潜伏キリシタンは、聖書から考えると本来のあり方ではない。聖書はまことの神だけを神とすることを教え、イエス様はだれの前でも自分がキリスト者だと言うべきことを教える。生き延びるために必要なことだったが、キリスト信仰を隠し、仏像を拝み、神社の神々に手を合わせることを神はあわれみをもって見逃していた。だが、それは本来のあり方ではない。ところで、酷い迫害をした江戸幕府を神は終わらせ、キリシタン禁制の高札は降ろされ、踏み絵も五人組の制度もなくなり、信教の自由が法律で認められた。だからもうイエスの御名をひた隠しにする必要はない。何のためらいもなく“わたしはキリスト者です”と言える。にもかかわらず今も潜伏キリシタンのような生き方をするならそれは変なことだ。「何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ」最終的に人を救うのは神だが、神は人を天国に導く福音を伝えることを私達に任せた。私達は“天国への道はこれです”という看板だ。看板はできるだけ人の目につく所に置く。もし私達が天国への看板を隠していたら、天国がどこか分からず迷う人達が出て来る。だからキリスト信仰を隠さず表そう。
