礼拝説教の要旨・2025年7月6日・黙示録3:1-6
“死にかけている残りの者たちを力づけなさい”
ペンテコステ以来、初期の教会の姿を学んできたが、それと黙示録の教会を比べると落差がある。黙示録の教会と初期の教会の間には50年位の間隔があり、世代交代がなされ、初めの頃にはなかった異端や迫害の問題が出て来て、教会は守りの姿勢になってきた。これまで話したエペソやスミルナやペルガモンやティアティラには異端や迫害の記述があり、そういう問題と戦う諸教会を誉め労う言葉が見られた。だが、サルディスには異端や迫害の問題がなく、そういう言葉がない。その代わりに初めから「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と酷評。サルディスは彼らの信仰自体が危機的な状況だったようだ。でも「死んでいる人」に「目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。」とも言う。死体に向かって瀕死の人を力づけろは変だから、「死んでいる」と酷評された人達はまだわずかだが信仰の火が残る人達だと考えられる。
そう考えると主は信仰の火が消えかかっている人達をも見捨てないで期待し、期待するからこそ「あなたの行いが、神の御前で完了したとは見ていない」と言うことが分かる。「死んでいる人」と「死にかけている人達」は同じ。両方とも信仰の火が消えかかっている人達。つまり主は信仰の火が消えかかっている人達どうしで互いに励まし合い、互いに信仰の火を再び燃え立たせるようにしなさいと命じる。それは使命であり、それを果たさないことは怠慢と戒める。これは一見厳しいが、理にかなっている。もし信仰の火が盛んに燃える人が、その火が消えかかっている人を力づけようとしたら、その人を見下したり高い所から圧力をかけて劣等感や反発を招く。だから「どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい」と勧める。この勧めは力づけようとする人にも力づけられる人にも有益。この通りにすれば、信仰が回復し、霊的に生き返る。主はさらに彼らが速やかに目を覚まして命じたことをするために再臨もほのめかした。「目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない」
さらに主は信仰の火が消えかかっている人達がその火を燃え立たせ、確かな信仰になるためにある目標を与えた。「サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む」サルディスにはわずかだが、汚されることなく主とともに歩む人達がいた。その人達はサルディスの希望であり、信仰の火が消えかかっている人が目指すべき目標だった。その人達はどんな人達か?特別に選ばれた人達ではない。普通の人達だ。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる」この勝利は主が十字架のみわざで勝利して私達に与えて下さるものであり、私達の努力の結果ではない。必要なのは信仰だけだ。白い衣を着るとはキリストの血によって罪の赦しを得て神の前の義と認められることだ。この白い衣はすでに信仰によって与えられたものだが、忘れている人達が案外いる。サルディスにはそういう人達が多かった。でも、忘れている白い衣を思い出して着れば信仰は生き返る。だから「どのように受け、聞いたかを思い起こし、それを守り、悔い改めなさい」と勧める。白い衣を忘れる恐れは、私達にもあるのではないだろうか。
